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甘粕正彦(5)陰鬱なる獄中~パリ暮し [読書・言葉備忘録]

 そんな甘粕大尉が、なぜに軍(や警察)による大杉栄、伊藤野枝、甥っ子の橘宗一君虐殺の罪を背負うはめになったか。軍上層部が甘粕をスケープゴートに選んだ理由は? 独身だったから。「未ダ稚気ヲ脱セナルヲ遺憾トス」性格ゆえか。はたまた朝鮮での「憲兵警察の廃止」建言で赤池濃を激怒させたためか。

 関東大震災、大杉事件当時の赤池は警視総監。内務省警保局長・後藤文夫。内務大臣・水野練太郎。この「赤池~後藤~水野」のラインが戒厳令を発動で、彼らが大杉一家虐殺を甘粕に仕組んだか・・・。

 かくして甘粕は事件の罪を一人で被った。その憲法会議供述は、53年後の昭和51年に発見された「死亡鑑定書」によって、フィクション(作りごと)だったことが判明している。罪を被って懲役10年。彼は大杉栄、荒畑寒村らも収監された千葉刑務所に入った。

 たびたび収監される主義者らは、例えば大杉栄は「一獄一語」として収監を語学習得の場にするなど、それなりに有意義に過ごしたものだが、甘粕はただただ拗ね・愚痴るのみ。それでも当初から決められていたらしき2年10ヶ月で出所。だが時を経ても大杉一家虐殺のインパクトは凄く、マスコミの取材が殺到する。結局、ホテルで憲兵上官に挟まれて各社合同記者会見。

 甘粕は出所9ヶ月後の昭和2年夏、新妻を伴ってフランスに旅立った。全経費、陸軍持ち。「マスコミがうるさく出国させた」(真相がバレるのを恐れて)、「軍が慰安旅行させた」の両説あり。

 だが甘粕のフランス生活は「なんとも憂鬱」に尽きた。フランス語がしゃべれぬからご近所との交際なし。軍から金が入ると競馬でスルなどで常に貧乏。子供が出来るも夫婦仲が好くもなし。「心がスネて、とても駄目なような気がする」と日記に記す。

ohsugisakae1_1.jpg 一方、大杉栄(写真)や荒畑寒村らの密航パリ、モスクワ行きはなんとも胸躍る旅だった。寒村はモスクワの共産党大会、メーデーに大興奮(「寒村自伝」)。大杉はパリのメーデーに飛び入り演説して収監されるも、その獄中記の明るいこと。長女・魔子にこんな戯歌を作っていた。「魔子よ 魔子 パパは今 世界に名高い パリの牢屋 ラ・サンテ。だが魔子よ 心配するな 西洋料理の御馳走たべて チョコレートなめて 葉巻スパスパ ソファーの上に。(略) おみやげどっさり うんとこしょ~」(大杉栄「自叙伝」)。快活で明るく愛らしい大杉栄の姿が浮かんでくる。

 甘粕が監獄と変わらぬ陰鬱な1年7ヶ月のパリ生活を切り上げて帰国したのは昭和4年2月だった。


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