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甘粕正彦(4)横顔その2 [読書・言葉備忘録]

asahiamakasu1_1.jpg 朝鮮から東京に戻った甘粕は、憲兵練習所に入って翌年卒業と同時に大尉昇進。市川憲兵分隊長になった。ここでも気になる逸話を残している。甘粕が「野田争議」を仲裁したとか。これまた両著ともに「どう仲裁したか」には言及せぬが、料亭代金を会社側が勝手に払ったことに激怒し、自分の分は自分で払ったと記していた。甘粕の潔癖さはよくわかったが、労資争議をどう仲裁したかには言及していない。甘粕はそんなに立派な大人になっていたのだろうか?

 小生の手許に瀬戸内寂聴「諧謔は偽りなり」を読んだ際に、図書館で当時の新聞縮刷版より「大杉事件」関連記事をコピーした20枚ほどがある。おそらく甘粕が初めて新聞登場だろう大正12年9月21日の「東京朝日新聞」(写真)に、彼の横顔がこう記されていた。

 小見出しは「問題の甘粕大尉」。・・・軍法会議に附された問題の中心となった甘粕大尉と最も親しく往来してゐた従姉で前内務省社會局嘱託・呉なべ子夫人を雑司ヶ谷の自宅に訪ふと(略)・・・正彦は今年三十二。伊勢山田の生まれですが先年父が死んだので母と八人の兄弟をつれて東京に移りました。経歴は幼年学校、士官学校を出ると直ぐに朝鮮憲兵分遣隊附きとなり、司令官副官、市川分隊長を経て現職(渋谷憲兵分隊長で麹町憲兵分隊長を兼務)になったのですが、上官からの受けもよく昇進も早い様でした。私の口から云うのも変ですが真面目で無口で読書好きです。(略)・・・憲兵は人事を司るのだからと云って随分新しいものも読んでゐた様で、司令官副官当時と思ひますが協調會の社会政策講習会に入って第一回の卒業生です。

 協調會をネット検索すると、渋沢栄一らが設立した労資協調のための財団らしく、甘粕はここで得た知識をもって「野田争議」を仲裁したと納得した。

 もうひとつ「理想の憲兵将校」の小見出しで、彼と同期生で第一師団司令部参謀の某大尉のコメント。・・・甘粕大尉は、士官学校時代は非常に真面目な勉強家で学科も実技も出来がよく将来を期待されてゐた。憲兵隊に入ったのは中尉の時で、この当時の石光憲兵司令官の副官となったのです。元来は歩兵でしたが足を悪くした為め転科したので、憲兵隊でも謹厳過ぎる程の人で酒も飲まず道楽もなくいい憲兵だと噂されてゐた程です。家庭的にも何もなかったと思ひますが、よく人の家庭のことまで心配してくれるというふやうな所もありました。あの甘粕大尉が不法行為をしたとどうしても思はれぬ程です。

 そんな彼が、なぜに大杉栄一家虐殺の罪をひとりで背負うことになったのだろう。


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