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荷風の中洲(1)そこは産科・婦人科 [永井荷風関連]

nakasugyouin_1.jpg 永井荷風の「越前堀」調べで遊んだら、その上流隣の「中洲」も知りたくなってきた。荷風さんは主治医・大石国手(国手は名医、医師への敬称)の中洲病院に性病検査、脚気注射、ホルモン注射、薬代支払とまぁ、毎週のように通っている。その帰りに浅草、玉ノ井、荒川放水路、越前堀(霊岸島)などへ足を延ばすことが多い。その意では荷風散策の出発点とも言えるかも。例えば昭和7年「中洲病院にて薬を求めた後、清洲橋をわたり、乗合自動車にて砂町終点に至る。」 いつもこんな按配だ。

 「大石君は中学校の頃余が亡弟貞次郎と同級なりき。余が始めて大石君の診察を受けたるは大正五年の夏なるべし。」 20年に渡る主治医関係。かくして「断腸亭日乗」には頻繁に中洲病院、大石医師、土州橋が登場。しかし悲しいかな「隅田川の中洲」がよくわからぬ。わからないと調べる楽しさに変わる。

 加藤郁乎「俳人荷風」を読んだことで、久し振りに「断腸亭日乗」をひもとけば中洲病院のスケッチを見つけて「おぉ」と釘付けになった。清洲橋脇の交番横の建物が「中洲病院」で隣が倉庫。その日記文は以下の通り。(写真上がスケッチ。写真下が現風景。マンションが並んでいる)

nakasubyouin1_1.jpg 昭和7年18日「晡下中洲に往く。いつもの如く清洲橋をわたり、萬年橋北詰の小道に入り、柾木稲荷を尋ねる~」。スケッチは隅田川対岸から中洲病院を描いたとわかる。

 中洲病院とは・・・。大石病院長・大石貞夫は大正3年に欧州留学から帰国して日本橋・鎧橋際に開院し、大正8年に中洲病院を開く。関東大震災で被災し、昭和2年に再建。同年5月18日の「日乗」にこう書かれている。

 「病院新築既に竣成す。五階つくりにてエレベーターにて昇降す、廊下廣く屋根の上に花壇を設く、萬事ホテルの如き体裁なり。」

 中洲病院は震災からいち早く復興し、こんなに立派な病院になった。繁盛病院だったに違いない。で、実は同病院は「産科・婦人科・女子泌尿器科」。荷風さんがせっせと通っていたのは、そういう病院なんだ。

 同年4月4日の日乗を読むと、中洲病院繁盛のワケがちょっとわかる。「正午中洲河岸に大石不鳴庵(俳号、なかずは中洲のもじり)を訪ふ。尿中の蛋白既に去れりと云ふ。中洲病院より深川清住町に渡るべき鐡橋の工事半成るを見る。」 清洲橋は翌年3月に開通。そして「かつての中洲」を説明。

 「往時中洲の河岸には酒亭軒を連ね又女橋のほとりには真砂座といふ小芝居あり、その横手の路地には矢場酩酊屋あり、白晝も怪しげなる女行人の袖を引きたり、震災後今日に至りては真砂座の跡もいづこなりしや尋ね難くなりぬ。」 そんな歴史を有する地で、そうした姐さん方や近くの葭町、柳橋の花柳界がらみの大繁盛と推測したが、いかがだろうか。


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