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荷風の中洲(2)中洲病院 [永井荷風関連]

kusamorikafu1_1.jpg 中洲病院(1)を記していて、4年前に読んだドカ弁級の分厚さ・重さを有した草森紳一『荷風と永代橋』(写真、青土社2004年刊)を思い出した。確か中洲病院の写真があったよなぁと。蔵書せぬ主義ゆえ、近在図書館を我が書庫と思ってい、あの本はあの図書館のこの本棚辺りと覚えている。さっそく幾度目かの同書借り出しと相成候。「あった、あった、中洲病院の詳細写真が」。(写真)。

 氏は古本書店発行の書目より「最新建築設計叢書」の小冊「中洲病院」を入手。昭和2年当時は斬新建築ゆえ専門誌も注目したのだろう。設計図に豊富な写真で、草森さんは小躍りの歓びよう。『荷風と永代橋』に4頁に渡って正面全景、待合室、エレベーター、手術室、日光浴室(サンルーム)、屋上庭園の写真、また同冊掲載文をも転載。まさに荷風さん記す「ホテル」のよう。

 正面全景も荷風さんスケッチも三階のようだが実際は地上四階、地下一階。玄関上の文字をルーペで見れば「NAKAZU HOSPITAL」。「中洲」は「なかず」。荷風さん、「お歌」もここに入院させている。

kusamorinakazu_1.jpg 病院長・大石貞夫は荷風さんより4歳下なれど、昭和10年1月に53歳で没。追悼句「福寿草梅より先にちりにけり」。主治医を亡くした自分を嘆いて「木枯に笠も剥かれし案山子かな」。 これは私にもわかる。両句ともに駄句。

 「断腸亭日乗」には大石病院長亡き後、中洲病院ではなく「土州橋」と記されるようになる。「土州橋」の位置は「goo」の地図で<古地図・日本橋・明治>でしっかり把握できる。中洲に架かるのは上流から「男橋」「女橋」。箱嵜町に架かるのが「土州橋」「永久橋」「汐留橋」。「土州橋」辺りが今は「東京シティターミナル」になっている。

 ここまで調べたら「越前堀」と同じく実際に行って見たくなる。今回は勝鬨橋を渡って佃島、中央大橋より越前堀(霊岸島)に入り、豊海橋から日本橋中洲へ。まずは「清洲橋」を途中まで行って、中洲に振り向いて荷風スケッチのような写真を撮った。(前回写真)。

 次に清洲橋を戻って首都高6号向島線(箱崎川埋め立て地)手前際に「金刀比羅宮\慈愛地蔵尊」を見つけた。中洲の歴史を語る何かがあるかと立ち寄れば、まずは玉垣が飛び込んできた。かつて華やかし時代を語る中洲の料亭・割烹の名がズラッ。ひと際「葭町芸妓芸妓組合」が目立っていた。


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