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夢枕獏「大江戸釣客伝」(5) [読書・言葉備忘録]

hanabusakanban_1_1.jpg 前回の続き。・・・其角と朝湖の会話は続く。其角はしみじみとこう言った。「人間ってぇのは、所詮、糞袋じゃねぇのか。口からおまんま食って、尻から糞をひる。将軍も遊女も同じ。人の肝んなかぁ、糞と欲とが詰まっている。そのなかに“狂”もある」

 糞より欲が詰まっていると自嘲する朝湖は二ヶ月の入牢に懲りず、放蕩と反抗心が治まらぬ。綱吉生母の桂昌院・甥に遊女を身請けさせた後、今度は桂昌院の姪の孫に遊女を身請けさせた。さらに彼が描いた「朝妻船」の遊女は、見る人が見れば綱吉寵愛の「お伝の方」とわかる。(小石房子『江戸の流刑』には板橋区立美術館蔵「朝妻船」掲載)。かくして彼らは元禄11年(1698)に再び捕まって、今度は宮部と半兵衛は八丈島、朝湖は三宅島に流刑。

 嵐山光三郎『悪党芭蕉』はこんな文章で結ばれている。・・・芭蕉の周辺には危険な人物が多く、其角もそのひとりである。其角一派(朝湖ら)の放蕩は、綱吉の母である桂昌院の縁筋にあたる本庄氏や六角氏に及びスキャンダルとなった。(略)。俳諧は俗文学なのである。罪人すれすれのところに成立する。(略)。芭蕉は危険領域の頂に君臨する宗匠であって、旅するだけの風雅人ではない。

 さて、朝湖がいなくなった江戸で其角はどうしていたか。その前に再び其角の住所調べ。飯島耕一<『虚栗』の時代>に収められた小説「神田滅多町の女」にこんな文章がある。「わたしは神田お玉が池で育ったのさ。『虚栗』を出版したあと照降町に引越し、元禄になると芝神明町、のちに萩生徂徠の住む茅場町に移った」。ってことはこの頃はもう茅場町に移っていたか。

 そして元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り。其角は隣の俳諧仲間・土屋主税の屋敷に服部嵐雪(共に照降町にいた)、杉風と年忘れの「雪見の会」で泊まり込んでいた。赤穂浪士は翌年2月に切腹。同小説では義父・上野介を失った津軽采女の悲しみが描かれているが、意外に知られていないのが赤穂浪士遺児4名の大島流刑。

 彼らにはそれまで仕えていた各藩主より各20両、米20俵が支給。松村喜兵衛次男・政右衛門は貧乏旗本・小笠原長門守の家臣で米二俵と金四両。彼らはそれらをひとつにして相暮したとか。それが尽きると莚を打って生活の足しにした。しかし間瀬久太夫二男・定八は在島2年で病没。大島元町の墓地に眠っている。(「大島町史」「伊豆諸島東京移管百年史」)

 赤穂の遺児らが大島に流された9ヶ月後、元禄16年(1703)11月22日深夜に元禄大地震。地震から6日後の29日に本郷の出火で上野から深川・本所まで下町一帯が類焼。 ちなみにこの地震で大島の火口湖・波浮池が、津波で決壊して海とつながった。これを機に他の島々の江戸行きの船がここで日和待ち。これを見て秋廣平六による波浮築港が行われた。

 ★「神田滅多町」は神田多町のこと。★「照降町」は現在の「江戸橋」北側の小舟町交差点辺り。下駄、傘、雪駄を売る店が並んでいて、雨が降れば下駄、傘が売れて、晴れれば雪駄が売れるんで、これら店の人たちは「照れ、降れ」と挨拶していたそうな。二代目団十郎「老のたのしみ」のなかに、其角が嵐雪と共に「てれふれ町足駄屋の裏」に侘び住いをしているの記述があるそうな。


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