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東京湾汽船・霊岸島発着場(3) [週末大島暮し]

sibaura2_1.jpg 東京湾汽船・霊岸島発着場は(2)で終えたが(3)の追記。これは夢枕獏『大江戸釣客伝』を読んでいて、英一蝶の三宅島流刑が描かれていて、大島流刑も調べてみようと昔の『島の新聞』をひもといたんです。すると別件だが「東京湾汽船、芝浦新築移転披露」特集の昭和11年11月8日号を見つけた。東京湾汽船の発着場が霊岸島から芝浦埠頭に移った記録。以下、同記事を紹介・・・。

 一面(写真)は新社屋、桟橋、橘丸と葵丸の写真。二面記事に施設概要あり。社屋は白色の建物で、ところどころに緑色タイル。正面から見ると瀟洒な汽船を模した流線型。階下に百坪ほどの船客待合室、食堂、切符売場。階上は社長室、事務所。長さ十二㍍の鉄筋コンクリート桟橋は、従来の固定式ではなく、潮の干満に合せた危険のない自慢施設。

 披露式典は十月廿九日。芝浦八号地に新設された社屋内船客待合室で行われ、林社長の挨拶、来賓祝辞の後、芝浦芸妓総出演の芝浦音頭や芝浦囃子などの余興。新桟橋に横付けされた橘丸、葵丸が開放されて模擬店をもって主客歓を尽す。新聞社飛行機が社屋上空を旋回して祝意を表し、夜十時に大島行きの橘丸が千人余の観光客を乗せて万歳の声に送られて歴史的な初出航をした。

 東京湾汽船・林社長の挨拶が全文掲載。概要は・・・前身会社より経営を引き継ぎ、従来の貨物重視から船客主の経営に変え、一年で百万人ほどを送迎をするに至った。従来の「越前堀」は明治大正ならいざ知らず、昭和も11年になると大帝都(六百万人)の海の玄関口・芝浦へ移転すべく念願がついに実現した。 続いて東京府知事・横山助成、東京市長・牛塚虎太郎などの祝辞全文が掲載。芝浦移転で東京~大島が約一時間短縮とか。

 さて、この芝浦桟橋がどこにあったのだろうか。新聞には「芝浦八号(埋立)地」とあり。現地図を見るとレインボーブリッジのループ脇辺りに東海汽船・芝浦支店があるからここかなぁ。その並びのループ際に「山田倉庫」あり。余談だが、この倉庫5・6Fが「芝浦スタジオ」。倉庫改造の広いスタジオを生かしてミュージシャン(歌手)らがコンサートリハをよくやっている。何度も取材に駆け付けたことあり。

 「島の新聞」に「芝浦芸者」とあり。調べれば当時の芝浦に花柳界あり。明治43年に芸妓屋28軒、大芸妓70名、小芸妓11名、待合茶屋20軒とか。今も当時の木造検番が保存されているとか。駅反対側には勝海舟と西郷の会談の地なる石碑がある。

 もうひとつ芝浦と云えば、東映ヤクザ映画の高倉健・藤純子主演「侠骨一代」(原作は芥川賞作家の富沢有為男)が思い浮かぶ。昭和初期の芝浦埠頭の組同士の抗争。観ている筈だが記憶はおぼろ。改めて映画ビデオを観れば、当時の芝浦埠頭の感じが描かれているかも知れぬ。なお芝浦桟橋は昭和28年に現在の竹芝桟橋が完成するまで使われた。


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