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飯島耕一『永井荷風論』 [読書・言葉備忘録]

kafuron.jpg 飯島耕一<『虚栗』の時代~芭蕉と其角と西鶴と~>を読んだので、氏の『永井荷風論』(昭和57年、中央公論社刊)も読む。<『虚栗』の時代>より16年前の刊。『俳人荷風』の「あとがき」を書きつつ亡くなった加藤郁乎との共著『江戸俳諧にしひがし』は平成14年刊。詩人で教授ゆえ難しく書いているんで、私流平易備忘録。

 書き出しは西脇順三郎がボードレール『悪の華』を語るなかで、荷風『地獄の花』が出てきたことに驚き、荷風とボードレール、ヴェルレーヌ、堀口大學へと言及。「荷風は嫌いだった」と記しながら、堀口大學が師の一人とする荷風の日本語に向き合って、その日本語のメロディーに酩酊されたと告白。「荷風の言文一致は、言文一致に疑いを抱きつつの言文一致」と定義し、「散文ながらその文章には音楽がある」という指摘が全編を貫く。

 ヴェルレーヌの詩の題名を現代詩人なら「白い月」と訳そうが、堀口訳は「白き月かげ」で、荷風訳は「ましろの月」。それだけで荷風の日本語の素晴らしさがわかると例にあげる。

 ここから荷風の出発点となった広津柳浪『今戸心中』から読み始めてエミール・ゾラへ。両者の影響からモーパッサン、ヴェルレーヌを経て『あめりか物語』 『ふらんす物語』にいかに脱皮して『すみだ川』に至るかを解いてゆく。

 そのなかにこんな一文あり。「わたしはかつてブラッサイが一九三〇年代のパリの娼家・娼婦の数々を撮った写真集本文を訳したことがあるが(『未知のパリ・深夜のパリ』みすず書房)、荷風読者にはぜひこの写真集も一瞥してもらいたい」。 荷風より先にヘンリー・ミラーの愛読者だったあたしは見たような記憶がある。

 著者は終盤で、これまでの荷風論が言及せぬ昭和21年刊『来訪者』収録の詩篇『偏奇館吟草』の各詩に言及。詩人ならではの荷風論に仕上げている。

 「終章」では、それまでのクールな記述から一変。少年期の荷風との邂逅を熱く語っている。昭和二十年の岡山空襲。荷風は疎開流転で菅原夫妻と岡山着。「此夜小学校講堂にて宅氏洋琴演奏の会あり、雨中皆々と共に行く。帰り来たりて最相氏の家に宿す」。のピアノ発表会に筆者も母親と行ったと記す。宅氏はピアニスト孝宅二氏で、彼は自分の家で何度もピアノ練習に訪れてい、その前夜も指ならしに立ち寄っていた。当時の『断腸亭日乗』岡山の記述に、少年期の思い出を興奮気味に甦らせ、同時に『日乗』をひきながら改めてその流麗な文語体に感心している。

 締めは荷風の「フランスが祖国」であるかのような荷風思想を「醜態」と言い放った三島由紀夫の死もまた「醜悪」だったとし、荷風の美しいフランスの光のきらめき(本物のフランス)、『腕くらべ』の妖精のようにみえる駒代が小走りに走って行く(本物の日本)。われわれの足もとが奇妙な明るさのなかで頼りないだけに、いっそうそれらは暗く美しい。で終わっていた。


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