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日本橋川(2)高松藩主は釣りキチだった [日本橋川]

horidomebasi1_1.jpg 「三崎橋」から「新三崎橋」「あいあい橋」「新川橋」そして「堀留橋」(写真上)辺りは、元和6年(1620)の江戸大改修工事で埋め立てられていた。ここは右岸(飯田橋側)を走れば、その頃の史蹟案内板三つを読める。

 最初の案内板は「飯田町遺跡周辺の歴史」。まずは神田川と日本橋川の歴史紹介。(1)でアップの絵図通り、埋め立て地が「松平讃岐守=讃岐高松藩上屋敷」になっていて、平成12年の遺跡発掘で同上屋敷跡、江戸初期の盛土や石垣、板の土留め護岸による「堀跡」が写真掲載されていた。 

 二つ目の案内板は「讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡」。初代藩主・松平頼重は水戸藩二代目藩主・光圀の兄。神田川の向こう側、後楽園一帯は水戸藩上屋敷で、兄弟仲良く隣に屋敷を構えていた。ちなみに讃岐高松藩の下屋敷は、目黒の現「自然教育園」。明治に火薬庫になり、大正10年に朝香宮の邸地へ。それを西武の堤康次郎が買収してプリンスホテルを建てようとして住民が反対。これは『ミカドの肖像』シリーズで記したばかり。

horiati_1.jpguki_1.jpg 三つ目の案内板は「讃岐高松藩上屋敷の庭園跡」。屋敷内庭園に造られた池跡から出土した漆塗り浮子の写真(左)が掲載されていた。殿さまは、よほどの釣り好きだったとみた。いや、馬琴と交流のあった江戸家老・木村亘(わたる)の趣味だったか。

 昨年11月に、長辻象平著『江戸釣魚大全』備忘録を記した。享保8年(1723)に同書を著した津軽采女政兕(まさたけ)が釣りに熱中したのは、それより36年前の綱吉「生類憐みの令」の頃からか。長辻氏は江戸の釣りブームの第一期を元禄以前(~1687)、第二期を享保(1716~)、第三期を天明から幕末[1781~)としたが、この漆塗り浮子は、江戸の釣りブーム考察に貴重な資料になろう。

 なお史蹟案内板には、明治維新後の「神田川と日本橋川」について、こう説明していた。「この地は神田川の対岸を含めて陸軍用地となり、明治28年(1895)には甲武鉄道・飯田町駅が開業。明治36年(1903)に日本橋川を再び開削して神田川と接続させ、陸軍用地を中心に水運と鉄道をつなぐ貨物ターミナルになった」。

 「飯田町駅」は貨物駅で、飯田橋駅と水道橋駅の間。現・日本橋川右岸の「ダイワハウス東京ビル」辺りにあった。日本橋川を埋め立て、また開削して両川を接続させた理由が分からなかったが、物資の舟運と鉄道のターミナル化と知って納得なり。この辺で「俎橋」方面に下ってみよう。


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