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日本橋川(3)馬琴の井戸 [日本橋川]

bakintakuido_1.jpg 日本橋川「堀留橋」辺りの住所看板を見ると「南堀留橋」右岸に「都旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸」表示あり。 「おお!」と思い、自転車で同井戸を探すもすぐには見つからぬ。そのはずで「馬琴の井戸」は史跡表示なしのマンション入口をズズッと入った奥の玄関脇にあった。

 現住所は千代田区九段北1丁目5番地。マンション名は「東建ニューハイツ九段」。旧住所は「飯田町中坂下」。馬琴さん、この地に寛政5年(1793)の27歳から文政7年(1824)の58歳まで、神田明神下に移るまで約30年間住んでいた。

 森田誠吾著『江戸の明け暮れ』(新潮社刊)には、馬琴の曾孫・橘女の回想録『思ひ出記』に、当時の飯田町がこう紹介されていたとある。「・・・御維新までは山の手の銀座で、当時の金持ちは飯田町に地所を持っていることを、一つの誇りにしていた。(中略)。中坂からこの坂下へかけては、町屋で相当いいものがあったし、芸者もいいのが居た」。 武家地のはざまの開けた町だったらしい。なお、馬琴が去った後は長女・お咲が住み、その婿に自家製の薬(亡くなった馬琴長男で医師・宗伯が遺した薬だろう)を売らせつつ、三日にあけず呼びつけて雑用をさせていたとか。

 野村宇太郎著『改稿東京文学散歩』(山と渓谷社、昭和46年刊)に、「馬琴の井戸」訪問記がある。著者は大正4年の内田魚庵の『思ひ出す人々』の「震災で破壊された東京の史蹟の其中で最も惜まれる一つは馬琴の硯の水の井戸である」という文章に出会って、同井戸を訪ねたと記す。震災で破壊され、戦災で壊された昭和26年が最初の訪問。「荒涼とした戦災ではあったが、(井戸)跡は板囲いをした工務店の瓦置場の中に、井戸の形だけが何とか生きのびているだけであった」。

 著者はその18年後にまた訪ねる。今度は手作りの案内板が出来ていた。「ここは滝沢馬琴が寛政5年以来31年間住まい、名高い八犬伝などの書を著述したところで、この奥に当時の井戸がある」。工務店が馬琴の井戸を文化財としてしっかり保存していることに感激した。さらに昭和46年に三度の訪問。すでに工務店はなく、工事の板囲い。中をのぞくと馬琴の井戸だけがポツンと残されていたと追記。それから42年後にあたしが訪ね撮ったのが、この写真。

 あたしは2011年1月のブログで森田著『江戸の明け暮れ』と高牧實著『馬琴一家の江戸暮らし』(中公新書)の読書備忘録を記している。二冊とも馬琴が律儀に家事、歳時、家計などを克明に記した日記より、江戸の暮しを探った書。両著を読んだあたしは生意気に、こんな事を記していた。<江戸の戯作者らが魅力的なのは、大田南畝が「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいたように酔狂、風流、粋、不良の危うさ、不沈人生の面白さゆえで、比して馬琴は倹約と保身を信条に、しかも「勧善懲悪」の読み物で人気作家になった。つまらん男よ。>


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