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日本橋川(4)馬琴「飼い鳥」物語 [日本橋川]

bakinido_1.jpg あたしが野鳥撮りを始めると、馬琴の別の顔「鳥飼い」の姿が見えてきた。馬琴は文化4年(1807)41歳、『椿説弓張月』で名声を得て、『上総里見八犬伝』に入ろうかの時期。流行作家の忙しさに精神困憊し、「折々逆上して口痛の患あり」。イラ立って家人に当たりだした。病弱ながら医者を目指す息子がいて、息子がお路さんを貰えば、お路に嫉妬する妻・お百がいた。

 お百は、ここ飯田町中坂の下駄屋の娘。養子を迎えたが不縁。その後釜に馬琴が入った。世話をしたのは奉公先の蔦屋重三郎と師・山東京伝。お百、不細工で悪妻。『馬琴日記』に・・・夜にいり、お百、また予に対して怨みごとをのべ、身を<井戸>に捨てるなどという」とあり。

 これは小池藤五郎著『山東京伝』に書かれていた。忙しさと家人のゴタゴタ。「これじゃ頭がおかしくなってしまう」で、小鳥を飼い出した。最初に「ウソ」を飼った。あたしは今年正月に近所の戸山公園でウソを撮った。胸の紅いのが♂。桜の蕾や紅葉の実を食っていた。

 馬琴が飼い鳥を始めると、江戸中の鳥屋が次々訪ね来て、あっという間に百羽ほどになった。「牛籠船河原なる鳥屋庄兵衛、安藤坂の鳥屋金次、小石川飛坂なる鳥屋松五郎、粂吉などと云う者、日毎に和鳥・唐鳥をもて来て見せて売まくす」。

 「文政10年(1827)5月8日 昼後、エゾ鳥其外庭籠の鳥騒候につき、立出、見候へば、大きなる蛇、縁頬(えんがわ、縁側のこと)へ上り、庭籠へかかり候様子につき、予、棒を以、手水鉢前草中へ払落し候へば、縁の下へ入畢(はいりおわんぬ。畢=ひつ、おわる、おえる)。」 など『馬琴日記』には鳥飼いの記録も多し。大蛇にイタチも出たか。

 馬琴さん、百羽は余りに多かった。これは大変な事態と翌年に多くを処分も、カナリアなど幾種は生涯飼い続けた。天保5年(1834)の68歳の時には、ついに『禽鏡』(きんきょう)と題した巻物6巻の鳥図譜(図鑑)も出版。馬琴が文を書き、末娘の夫で絵師の渥美覚重が絵を描いた。

bakinido5_1.jpg 以上はブログ紹介済の細川博昭著『大江戸飼い鳥草紙』(吉川廣文館刊)より。なお馬琴は天保7年(1836)に神田明神下から四谷信濃町辺りに移転。四谷ポタリング中に「馬琴終焉の地」と書かれた地図看板を発見。周辺を何度も走ったが「終焉の地」は見つからず。きっと住民が史跡表示を外したのだろう。

 写真上は「滝沢馬琴宅跡の井戸」表示がある地図看板。あたしは「南堀留橋」近くのマンション「ニューハイツ九段」(写真下)エントレンス奥の井戸を眺めつつ、史跡保存に感謝し、ここで馬琴が硯の水を、また鳥たちの水も汲んだかぁ~としばし灌漑。

 追記:馬琴は文政七年(1824)に飯田町宅を長女の婿に与え、息子・宗伯に買い与えた神田明神下同朋町へ移転・同居した。この頃のことは『曲亭馬琴日記』に詳しく、後日読んだ。また深川の生誕地、神田同朋町、終焉の信濃町を自転車で巡った。これらはいずれ記す予定。


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