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日本橋川(5)「俎橋」の鬼平と忠吾 [日本橋川]

manaitabasi3_1.jpg 日本橋川は「堀留橋」「南堀留橋」を経て、靖国通りの「俎橋」(写真上)に至る。千代田区サイトと九段坂公園案内板より、まずは「九段坂」の歴史・・・。

 神保町へ続く「靖国通り」開通は、武家地が廃された後で、明治37年(1904)に路面電車が開通。当初は九段坂が急で登れず、坂脇に勾配を緩くした専用軌道を設けていた。関東大震災(大正12年)後、坂の頂上を市ヶ谷寄りに移し(長くして)傾斜を緩くする工事で、市電(都電)を中央に設置。さらに「九段坂公園」の説明文は続く。

 ・・・この「高燈篭」(写真左)は、坂上の靖国神社前にあって、品川沖の船はもちろん、遠く房総からも望見されたとか。つぅワケで、路面電車開通までは尾崎紅葉をはじめ「硯友社」(飯田町の坂上)作家ら、また永井荷風、田山花袋もみぃ~んな歩いて神田~九段坂を歩いていた。その急な九段坂上からは海も臨める眺望だったらしい。

takatoudai1_1.jpg そして「俎橋」。九段坂公園の案内板には「江戸名所図会」の「飯田町(中坂・九段坂)」(写真下)の金属版あり。江戸の「俎橋」は、かくも小さな木橋で「今魚板橋(いままないたばし)」。九段坂を下って「俎橋」を渡るとT字路。神保町への直進路はなかった。「俎橋」上流は「俎河岸」で日本橋川の最上流荷揚げ場。

 九段坂から「俎橋」手前で右折すると「清水門」あり。「江戸切絵図」を見ると清水門前に「御用屋鋪」がある。池波正太郎は『江戸切絵図散歩』(新潮文庫)でこう書いている。・・・私は「鬼平犯科帳」を書くとき、京都から江戸へ帰任した長谷川平蔵が、一時、目白台に屋敷をもらっていたので、どうも、小説の上から、これを役宅にしてしまうと不便のような気がして、清水門外に[御用屋鋪]と切絵図にあるのを利用させてもらい、ここへ役宅を置き、目白台の屋敷には、長男辰蔵に留守番をさせることにしたのである。

manaitabasi5_1.jpg ゆえに『鬼平』には「俎橋」が「俎板橋」の名でよく登場する。例えば文庫本10巻目収録『五月雨坊主』。・・・駆けつけて来た忠吾に平蔵が言う。「またしても、俎板橋のたもとに出ているだんご屋で、餡ころ餅をしこたま買い込み。ふとんの中にもぐりこんで絵草紙でもめくりながら、むしゃむしゃと食っていたのであろう」「よ、よくご存知で・・・」。

 絵図を見れば「俎橋」たもとに、「だんご屋」がありそうな気がしないでもない。


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