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日本橋川(6)鬼平渡れぬ「宝田橋」 [日本橋川]

takaradabasi3_1.jpg 渡部一二著『江戸の川・復活』(東海大学出版会)は日本橋川テーマの書だが、「俎橋」のちょい下流「宝田橋」について、こう記していた。

 ・・・旧小出河岸近くに架かる橋。橋の名になっている「宝田」は、江戸開城以前からあった村の名前。清水門がまっすぐ正面にみえる位置にあった。小説(池波正太郎『鬼平犯科帳』)にでてくる橋。

 同小説シリーズのどの物語や。あたしはバカゆえ『鬼平犯科帳』文庫本①から順に「宝田橋」が出てくる物語を探した。何巻読んでも出てこぬ。『鬼平』ファンのかかぁに訊いた。「おまいさん、その橋は江戸時代にはなかったんじゃないかい」。

takaradabasi5_1.jpg 改めてネット検索。「あららっ」。昭和4年に初めて木橋が架けられ、現在の橋は昭和43年に架設。これじゃ『鬼平』に出てくるワケがない。渡部先生はどこぞのサイト引用で、ご自分では調べなかったらしい。写真上は清水門より50メートルほど手前から見た「宝田橋」。また、まっすぐ正面とも言い難い(写真下の地図参照)。

 池波正太郎は「江戸切絵図」の清水門前「御用屋敷」を、フィクションで「鬼平役宅」にした。この「御用屋敷」だった地には、平成19年完成の千代田区役所本庁舎・九段第3合同庁舎が建ってい、その脇道「竹平通り」に架かるのが「宝田橋」。

 この地は、戦時中は憲兵下士官の宿舎で、戦後はGHQの日本人職員や引揚者が住んでいた大蔵省関東財務局管理の地。ネットに平成10年の「第142回国会・行財政改革・税法等に関する特別委員会」議事録がアップされている。益田洋介議員が松永光大蔵大臣、橋本龍太郎内閣総理大臣に、国有財産の洗い出しと処分の必要を迫って、その例として「竹平寮」に言及している。「ここは元陸軍の宿舎。戦後に国有財産として管理され、引揚者の方に賃貸していた。現在120戸のうち19戸がお住まい。時価150億円。こういうものが戦前の姿のまま残されている。売却した方がいいでしょう」。いつやるか、今でしょう。・・・かくして更地になり、千代田区役所本庁舎・九段第3合同庁舎になったらしい。

takaradabasitizu_1.jpg さて、なぜに「宝田橋」か。太田道灌が長禄元年(1457)に日比谷入江際に城を築いた当時、この地は千代田村、祝田村、宝田村で、そこから「千代田城」。千代田区の由来もそこからか。徳川家康が江戸に来るってぇと江戸城拡張で上記三村を移転させた。宝田村は氏神様「宝田神社」と共に日本橋に移転。それが今も「べったら市」で有名な「宝田恵比寿神社」。この辺のことは同神社サイトに書かれていた。

 なお、清水門内「北の丸」は田安家、清水家の屋敷だったが、明治からは「近衛歩兵連隊」の駐屯地。あの「竹橋事件」にはせ参じた兵士もいたかもしれぬ。


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