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日本橋川(7)けんもほろろの「雉子橋」 [日本橋川]

kijibasi1_1.jpg 「宝田橋」の次が「雉子橋」。専大前交差点から皇居方面へ架かる。写真上の橋向こう左ビルは「住友商事・竹橋ビル」で、角を曲がると「毎日新聞社」。

 橋たもとに橋名由来の看板があるも、ここは文久2年(1862)刊の古書『慶長見聞集』をひく。同著は明治・大正・昭和と何度も復刻されて、今は中丸和伯注(江戸資料叢書、新人物往来社、昭和44年刊)を読むことができる。同著に「江戸の川橋にいわれ有る事」の章あり。

 「家康公関東へ御打入以後から唐国帝王より日本に勅使わたる。数百人の唐人江戸に来たり。これらをもてなし給ふには雉子にまさる好物なしとて諸国より雉子をあつめ給ふ。此流の水上に鳥屋を作り雉子をかきりなく入置ぬ。雉子小屋のほとりに橋一つ有けり。それを雉子橋と名付けたり」

kijiba5_1_1.jpg さらに下流の橋へ言及。ついでゆえ引用を続ける。「其下に丸木を壱本わたしたる橋有りければ、是をひとつ橋とまろき橋共いひならはす。扨(さて)又、御城の大手の堀に橋ひとつかゝりたり。よの橋よりおおきなれはとて是をは大橋と名付けたり」

 橋たもと看板には、こんな説明もあった。「江戸城本丸にも近いため警備も厳しかったといわれます。“雉子橋でけんもほろほろに叱られる”。 旧雉子橋は、この橋より百メートル程西側に架けられていました」

 そこで『江戸切絵図』は「日本橋北・神田辺之絵図」を見る。「神田橋」近くに「雉子町」あり。神田雉子町は現・神田司町。雉子小屋があった地か、はたまたここに移ったか。神田雉子町名主の齋藤幸雄(長秋)、幸孝(莞齋)、幸成(月岑)の三代が、かの『江戸名所図会』(7巻20冊)を著した。また雉子町には陸羯南の「日本新聞」社があった。正岡子規が大学を諦めて(落第)、母と妹を羯南の根岸宅の西隣に越してきて、彼の新聞社記者になった。根岸から雉子町へ徒歩通勤。神田の歴史は探ればキリなく奥が深い。

 『慶長見聞集』にある「数百の唐人~」を調べようとしたが、酒井茂之著『江戸・東京 橋ものがたり』(明治書院)に書かれていた。「唐人というのは、朝鮮通信使のことで、朝鮮国王が江戸幕府に派遣した使節である。将軍がその職につくと、慶賀のために慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで12回も使節は来日した」

 まぁ、その度に雉子料理では関東に雉子がいなくなったのでは。あたしは手賀沼ほとりで野生の♂雉子に出逢い、やや興奮して写真を撮ったことがある。


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