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日本橋川(8)鴎外・南畝の「一ツ橋」 [日本橋川]

hitotubasi4_1.jpg 「一ツ橋」たもとに史跡案内あり。まず橋名の由来を前述『慶長見聞集』からひき、こう続ける。「橋近くに松平伊豆守の屋敷があって伊豆橋とも言われた。その屋敷跡に八代将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人として居を構えて「一ツ橋家」と称した。明治6年(1873)「一ツ橋」を撤去。今の橋は大正14年(1925)架設。橋の北側の如水会館一帯は商科大学(一橋大)があった」

 この説明には五代将軍綱吉が欠けている。綱吉がここに大寺院「筑波山護持院元禄寺」を建立した。享保2年(1717)正月大火で焼失。その跡地が火除地「護持院原(ごじいんがはら)」になった。現在の神田警察の南側辺り。

 森鴎外に『護持院原の敵討』あり。物語は天保4年暮。大金奉行の山本老人が金部屋警護の宿直中に襲われた。老武士は「敵を討ってくれ」の遺言を残した。22歳の長女りよ、19歳の倅宇平に、姫路在住の実弟・九郎右衛門が助太刀を名乗り出た。女りよの同行は許さず、老武士に世話になり、かつ敵の顔を知る文吉が同行した。

hitotubasi1_1.jpg 敵を探して日本中を彷徨う暮らし。当てのない旅の虚しさに宇平が消えた。路銀も絶えた頃に「敵が江戸にいる」の知らせ。江戸中を探し求めて、ついに敵を見つけた。「龍閑橋」を経て「鎌倉河岸」から神田橋外の「元護持院原二番」に出たところで敵を捕まえた。

 りよの奉公先に宇平が走った。「母危篤」と外出を願う。宇平の顔を見たりよは、敵を見つけた知らせと直感し、遺品の短刀を忍ばせて走った。見事に敵討ち成功。翌朝の護持院原は見物人が押し寄せた。江戸に絶賛の声が湧き上がる。三人それぞれに幕府から褒美が与えられた。

 森鴎外はこう締めくくる。屋代弘賢は彼らを讃美する歌を作ったが、幸いに太田七左衛門が死んでから十二年立(ママ)っているので、もうパロディを作って屋代を揶揄(からか)うものもなかった。

  屋代弘賢は当時の学者。彼と交流のあった七左衛門は「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいた狂歌の大田南畝の晩年名。南畝ならば勧善懲悪、封建的道徳・美徳に熱狂の世を笑っただろう、の意をこめて鴎外は小説を締めくくった。思わぬところで大田南畝(蜀山人)が出てきた。鴎外・南畝が出てくれば荷風の出番になろう。それは次にまわして「江戸切絵図集」を見れば、一ツ橋門外にちゃんと二番~四番までの「御火除地=護持院原」が広がっていた。あれもこれも隠居読書の愉しみなり。


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