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日本橋川(9)荷風の「錦橋」 [日本橋川]

nisikibasi1_1.jpg 「一ツ橋」の下流が鉄筋コンクリート・アーチ橋「錦橋」。昭和2年の架橋ゆえ「江戸切絵図」に橋はなく、この辺りは「二番御火除地」が広がっていた。

 ここで注目は「一ツ橋」から下流に向かって露出の護岸石組。皇居の石組と同じく角がキチッと決められて、その内側が「乱組」。石をよく見れば工事を請け負わされた藩の印が刻まれているかもしれない。高層ビル乱立の東京に、江戸が覗いている。

 「錦橋」は「神田錦町」からか。その「錦町」は一色なる旗本が二軒いて「二色」が「錦」になったとか。武家地がなくなったり火除地の空地は、明治になると概ね軍隊用地か文教地区になる。ここは南高(東大)、華族学校(学習院)、電機学校(東京電機大)、英吉利(イギリス)法律学校(中央大)、神田高等女学校(神田女学院)など文教地区の観を呈した。

nisikibasigogan_1_1.jpg ここからは余談。永井荷風に昭和4年『夜の車』がある。・・・人力車に乗るってぇと車夫が身の上話をする。倅が遊女と心中し、命は助かったが監獄暮し。亡くなった女には母と眼の見えぬ婆さんがいた。打っちゃって置けずに植木職をしつつ夜なべ仕事で車夫をし、彼女らに仕送りをしていると語る。そう聞けば乗る方もば蟇口の底を叩くこともある。

 そんな義理人情も薄れ、車夫が運転手の時代になった。日比谷で車に乗れば運転手がこう言った。「今日は土曜日。お遊びに行くならいいところへ案内しますよ」。日比谷通りで<神田橋>をわたって<錦橋>を左に見たあたり。震災復興の区画整理が終わったばかりで(<錦橋も出来たばかりで>)、貸家の札が多い。横丁の路地へ。案内された二階屋のなまめかしい部屋。泊まりで遊ぶなら隣の空家へ。押入れの引き戸を開ければ、そこが隣の家の部屋になっている仕組み。荷風さんが、そこでどんな遊びをしたかは読んでのお楽しみ。

 まっ、ビルだらけの神田錦町だが、そんな時代もあったというハナシ。


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