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日本橋川(10)「神田橋」と半七親分 [日本橋川]

kandabasi1_1.jpg 「神田橋」際に「物揚場跡」石碑と「内神田一丁目」史跡案内板あり。要約する。

 ・・・この界隈には徳川家康の江戸城築城と町造り資材を運んだ荷揚げ場あり。神田橋は江戸城外郭門の一つで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道。要所ゆえ明治の頃まで建造物なし。明治初期の地図には交番と電話があるのみ。空き地の状態は第二次大戦戦後まで続いた。 神田は江戸っ子の職人、商人でごったがえした下町と思いきや、そんな一画があったとは。・・・そして昭和五十八年、神田橋土木詰所の敷地に内神田住宅が完成して九十世帯が住み始めました。

 この案内板には明治30年頃の神田橋の絵と、江戸切絵図(安政三年・1856)が掲載。外濠門側の石垣の高さよ。内堀と同じく濠際は敷地より土手状に高かったのだろう。そして絵図をよく見ると「御宿稲荷」あり。ひょっとしてと自転車で走りまわれば、今も「御宿(みしゅく)稲荷」があった。以下、神社の由来。

kandabasimei30_1.jpg ・・・徳川家康は関東移封の際に神田村郷士宅に投宿。そこに宇迦之魂命(うかのみたまのかみ)が祀られていた。後に幕府が家康の歩んだ記念に社地を寄進。大震災と戦災で焼失して三度の再建。ここは昔「神田三河町一丁目」。家康と共に三河国の臣下が住みついてのこと。また鎌倉から来た材木商たちが築城の木材を荷揚げした場で「鎌倉河岸」。昭和10年から「神田鎌倉町」そして今は「内神田一丁目」。

 オットォ~、「神田三河町」と云えば「三河町の半七親分」じゃないか。岡本綺堂『半七捕物帳』。同捕物帳に地元舞台の二話あり。「神田橋」門外の鎌倉河岸で赤ん坊を抱いて倒れていた男の謎『三河万歳』と、「一ツ橋」門外の事件『雪達磨』。ここでは後者を紹介しよう。

kandabasi2_1.jpgmisyakuinari_1.jpg ・・・半七の縄張り内ですから、威張って話せます、と半七老人が語り出す。文久2年は元旦から大雪。「一ツ橋」門外の「二番御火除地」隅に大きな雪達磨。十七日に雪が解けて、中から死体が出てきた。半七は南京玉を見つけた。ここから贋金造りの一味を捕まえる物語。

 鬼平の役宅が清水門外。半七親分が三河町。そして今は佐伯泰英『鎌倉河岸捕物控』シリーズが人気。捕物小説は日本橋川沿いが定石らしい。


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