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日本橋川(11)江戸繁昌と米機掃射の「鎌倉橋」 [日本橋川]

kamakurabasi1_1.jpg 『江戸切絵図』を見ると「神田橋」の下流が「常磐橋」。今はその中間辺りに昭和4年完成の震災復興橋「鎌倉橋」が架かっている。鉄筋コンクリートのアーチ橋。ここらは昔の「鎌倉河岸」。

 橋たもとに「鎌倉河岸跡」史跡案内板あり。以下要約。・・・天正18年(1590)の家康入国の初期から同河岸は魚、青物など生鮮食品をはじめ木材、茅などの物資集積地。江戸城築城では鎌倉からの石材を荷揚げしたので「鎌倉河岸」。別史料では、鎌倉から来た材木商たちが築城の木材を荷揚げしたので「鎌倉河岸」とあり、どちらが正しいや。案内板の説明はこう続く。

kamakurabasi2_1.jpg ・・・『江戸名勝誌』には(鎌倉河岸は)神田橋より常磐橋の辺の御堀はたを云」とあり。また『俗江戸砂子』には「鎌倉町、かまくらがしと云、御堀ばた米屋多し」と記されている。江戸中期以後も水上交通のターミナルとして重きをなし、木材、竹、薪などを荷揚げ。この河岸の豊島屋十右衛門という酒屋が売り出す雛まつりの白酒は有名で、時期になると余りの繁盛に店内で絶倒する客があった。同店は戦災までこの河岸で営業していたが、現在も神田(猿楽町1丁目)で営業中。昭和にになっても建築材料の荷揚げが行われていました。当時の「鎌倉町」は、現在の内神田一丁目六番地、二丁目二・三番地の区域。

 文中の「豊島屋」の繁盛ぶりは、(7)で記した神田雉子町の名主、齋藤長秋、莞齋、月岑の三代による『江戸名所図会』(7巻20冊)の長谷川雪旦の絵「鎌倉町豊島屋白酒を商ふ図」に描かれている。自転車で周囲を走っていたら、神田駅~龍閑橋辺りの高架鉄道工事現場の壁画に、その絵の一部が漫画タッチで模写されていた。

kamakurabasidankon1_1.jpg さて、鎌倉橋の欄干に「昭和19年(1944)11月の米軍による爆撃と機銃掃射の被弾跡」があった。今も生々しい銃痕跡。昭和の江戸っ子が悲鳴あげて逃げ惑ったのは70年ほど前のこと。この橋のたもとに佇めば、江戸から平成の四百数十年余が見えてくる。人の営みは間違っていなかっただろうかと。


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