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日本橋川(15)幻の「道三堀」「外濠川」 [日本橋川]

yatuminohasi_1.jpg 江戸時代は「(旧)常磐橋」下流に架かる「一石橋」に立つと、「外濠川」の「呉服橋」「鍛冶橋」が見え、「日本橋川」上流の「常磐橋」、下流の「日本橋」「江戸橋」が見え、さらに「道三堀」の「銭瓶橋」「道三橋」を見渡すことができたので、ここを「八つ見橋」とも言ったそうな。広重が『八つ見のはし』(左)を描いている。「一石橋」から正面に見えるのが「道三堀」に架かる「銭瓶橋」。今は「道三堀」も「外濠川」もない。

 菅原健一著『川跡からたどる江戸・東京案内』(洋泉社)、酒井茂之著『江戸・東京 橋ものがたり』(明治書院)より、両川について簡単にまとめてみる。 「道三堀」(江戸切絵図の青色)は、徳川家康が江戸入りした直後(天正18年・1590)に江戸城を造るための資材・物資の船運水路として最初に開削。「和田倉濠」から「道三橋」「銭瓶橋(ぜにがめばし)」を経て外堀(日本橋川)へ。『江戸切絵図』では「銭亀橋」表示。慶長年間にはこの堀に面した河岸は、多くの材木商が軒を並べた材木町、柳町という傾城(遊女町)もあって、「銭瓶橋」近くには江戸最初の銭湯もあったらしい。後に一帯は大名屋敷になり、「道三堀」は明治43年(1910)に埋め立てられた。

 「外濠川」(絵図の赤色)は、神田川と共に江戸を代表する河川で「常磐橋」から「呉服橋」「鍛冶橋」「数寄屋橋」「山下橋」を経て汐留川へ合流。ちなみに「呉服橋」に北町奉行所、「数寄屋橋」に南町奉行所があった。この川は戦災瓦礫の埋め立て地にされて、昭和22年(1947)に東京駅の「呉服橋」「鍛冶橋」を皮切りに順次埋め立てられた。昭和37年の河川法改正で「外濠川」の名が消えて、現在の「日本橋川」へ。

kietakawa1_1.jpg 三浦浄心著『慶長見聞集』いわく、「江戸町東西南北に堀川ありて橋も多し。其数をしらす」。江戸は縦横に水路が巡る美しい町だったに違いない。しかし多くの川が震災・戦災の瓦礫の捨て場になり、残った川の上には首都高速が走っている。まぁ、明治幕藩政治以来、江戸を知らぬ役人によって東京は激変を繰り返している。荷風さんが浅草、深川、荒川放水路、三ノ輪、玉ノ井に足を向けたのもよくわかる。

 明治時代は「鍛冶橋」「八重洲橋」前の内堀側、つまり現「東京駅」の辺りは「鍛冶橋監獄」だった。詩人で小説・戯曲の木下杢太郎設計の「八重洲橋」、また島崎藤村が「鍛冶橋監獄」の実兄・秀男を訪ねる『春』についても記したいが、長くなったので次回へ。


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