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日本橋川(16)木下杢太郎の「八重洲橋」撤去 [日本橋川]

toukyoueki1_1.jpg 東陽堂「風俗画報」が明治29年から15年間に及ぶ企画で全64冊の『新撰・東京名所図会』(絵・山下昇雲)を発行。その「麹町区の部」を見ると・・・

 外濠川に架かる「鍛冶橋」の真ん前が「東京府廳」。道を隔てて「日本郵便会社」(今年3月開業のJPタワーと同じ場所)。そして現・丸の内寄りに「東京裁判所」、明治7年完成の「警視廳」、明治20年完成の「鍛冶橋監獄署」が並んでいる。その前に架かっていたのが「八重洲橋」。この絵を見ると「鍛冶橋監獄廳」跡に東京駅が建ったのがわかる。同監獄は明治36年に市ヶ谷監獄と合併する。

 現東京駅の写真で説明すると、駅の裏側に幾本もの線路をまたぐ長橋があって、外濠川に架かる「八重洲橋」があった。そして駅舎は「鍛冶橋監獄廳」跡。当時この辺が「八重洲」。その名は豊後に漂着したオランダ船の航海長ウィリアム・アダムス(三浦按針)と共に乗っていたヤン・ヨーステン(和名・耶楊子=やようす)が、家康の通訳を務めてここに屋敷を構えていたことから。写真下は丸ビル横の彼らが乗っていた蘭船デ・リーフデ号。なお三浦按針は日本橋「按針通り」に旧居跡あり。

yaesunofune_1.jpg 「八重洲橋」は明治17年(1884)に呉服橋と鍛冶橋の間に架橋。大正3年(1914)に東京駅の開業で撤去。しかし大正14年に東京駅入口として再び架橋。昭和22年の外濠川埋め立てで再び撤去。野田宇太郎著『改稿東京文学散』の「丸の内」の章では外濠川の埋め立て、詩人・木下杢太郎設計の「八重洲橋」が壊される愚策を涙ながらに記していた。

 「ステーション・ホテルが東京の代表的ホテルとして出現して間もなく大正七年八月のこと、詩人木下杢太郎がその七十一号室に泊まった」と書き出す。満州赴任で遅れていた処女詩集『食後の唄』の序文を書くためだったが、彼は序文にこの二年間の東京の様変わりに抑えきれぬ腹立たしさを記せずにはいられなかったと記す。そして・・・

 「昭和二十二年までの江戸城濠の光景を思い出す。そこには八重洲橋という幅広い頑丈な石と鉄との橋が架かっていた。東京駅が出来て明治以来の橋は一度取り払われ、大正十二年の震災以後また架設されていたのである。この橋が木下杢太郎の設計であることを知る人は少なかった。詩人で小説戯曲の作者であり、評論家であり、歴史家であり、また美術家であると共に、医学者であった木下杢太郎は、震災後の新しい東京の復興に際して、橋の設計までしていたのである。」

 木下杢太郎『食後の唄』序文に重ねて、野田宇太郎もまた戦後復興の心なき破壊的建設法によって、美しい外濠川が埋め立てられ、美しい橋が毀されてゆく現場を見つつ、こう嘆いていた。「水が片っ端から埋め立てられるのは、人間が生きながら埋められるようなものである。そして詩人が設計の橋は他にない。真の文化にお構いなしの敗戦国役人らしい破壊作業であった。」


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