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日本橋川(17)島崎藤村の「鍛冶橋」監獄 [日本橋川]

kajibasienkei.jpg 島崎藤村は「鍛冶橋監獄」に実兄の面接に行く。書かれているのは『破壊』に次ぐ長編『春』。明治41年の「東京朝日新聞」連載。内容は執筆より15年ほど前、明治26年夏から29年夏の自身の体験。

 当時のプロフィール。明治25年が満21歳で明治女学院教師。教え子への恋に悩む。仲間と『文学界』創刊。22歳で放浪。関西、鎌倉円覚寺滞在、そして東北へ。11月に母と兄の家族が上京し三輪に住む。23歳で再び明治女学院教師。北村透谷が25歳で命を絶つ。ちなみに筆名・透谷(とうや)は「数寄屋橋」のスキヤから。長兄・秀雄が公文書偽造の疑いで収監。樋口一葉を知る。24歳で本郷新花町に移転。仙台の東北学院教師赴任・・・。

 理想の春、芸術の春、人生の春を問う青春小説だが、ここでは「鍛冶橋監獄」の長兄との面会場面に注目。彼は本郷新花町(現・湯島二丁目)の家で母に起こされる。「今度という今度は無罪と思ったが・・・」母の言葉を背に、町から町へ歩いてやっと陽が昇る。

 鍛冶橋監獄前には、すでに7時開門を待つ人々。番号札は十九番。次は面会順の籤箱で三十番をひく。長い待ち時間。判決決定の囚人を乗せる箱馬車が巣鴨へ走り去る。面会室に入る。小窓が開いて兄と面会。湯島に戻ると空は真紅だった。

 兄は上告が認められて名古屋裁判所へ移動。監獄署前で兄が出てくるのを待った。橋のたもとでしばし和む。煙草を差し出す。巡査が黙認してくれる。高輪辺りまで見送った・・・とあった。未だ東京駅なし。兄に希望が見えたところで、彼は仙台への教師赴任で上野発の列車に乗る。東京駅は大正3年開業で、上野駅は明治18年開業。

 あたしは目下、松田裕之著『高島嘉右衛門~横浜政商の実業史』読書中だが、高島は今でいう「外国為替管理法」違反で万延元年(1860)に日本橋の小伝馬町牢屋に入った。囚人療養施設・浅草溜から石川島人足寄場へ。苛酷な日々を生きのびて、新橋~横浜間の鉄道用地(後の高島町)埋立事業をやり遂げ、次第に政商に昇り詰めて行く。

 「鍛冶橋監獄」から「小伝馬町牢屋」に話が遡ったのでここで止める。写真は井上安治絵の「鍛冶橋遠景」。外濠川がこんなに大きかったとは。遠くのアーチ橋が「鍛冶橋」。その向こうの洋風建物が警視庁や鍛冶橋監獄や。次回は改めて「一石橋」。泉鏡花、竹下夢二がからむ。


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