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日本橋川(18)鏡花と夢二の「一石橋」 [日本橋川]

itikokubasi7_1.jpg 歌川(安藤)広重が「一石橋」からの風景「八つ見のはし」を描いた。広重は八代洲河岸に勤める定火消同心の息子。『江戸切絵図』を見ると馬場先御門前(八代洲河岸)に「定火消役屋敷」あり。ここからも今の「丸の内」が八重洲だったとわかる。

 広重は安政2年の江戸大地震の翌年から「名所江戸百景」を描きだした。あの橋の絵は、早くも復興後の景色か、はたまた幻や。これまた興味深い謎だが、それを含んでも江戸庶民のバイタリティーが伺える。比して今の日本は復興も行政がんじがらめで遅々と進まぬような。

 ★広重の「名所江戸百景」スタートと同年刊『安政見聞録』は地震詳細レポートだが、版元と絵師は処罰された。この全頁は「日本社会事業大学」のサイト「デジタルライブラリー」で見ることが出来る。あたしは勉強不足ゆえ読めぬ。日本人なのに日本語が満足に読めぬ悔しさよ。

 「一石橋」(写真正面が常磐橋、右側が一石橋)は「道三堀」と「外濠川」が埋め立てられ、直角カーブした所に架かっている。橋の両詰めに案内板あり。二つの記述をまとめる。 ・・・江戸初期に西河岸町と北鞘町を結ぶ木橋が架けられた。北側の金座御用の後藤庄三郎、南側の御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があって「五と五」で「一石」とか。明治6年(1873)に最期の木橋が撤去され、大正11年(1922)に鉄筋コンクリート・花崗岩造りのモダンな橋になった。アーチ部分が石積み、重厚な石の高欄、親柱、照明。現在の橋は平成9年竣工で、大正時代の親柱一基のみが残されている。

maigosiraseisi41_1.jpgyumeji_1.jpg 「一石橋」南詰めの親柱脇に、都指定文化財「一石橋迷子しらせ石標」(写真左)あり。その史跡案内文を要約。・・・江戸時代後半、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かった。迷子は町内で保護することになってい、安政4年(1857=広重が「八つ見のはし」を描いた翌年)に迷子探しの告知石碑を建立。右側面に「迷子を知らせる紙」を、左側面に「迷子を探す紙」を貼った。

 泉鏡花『日本橋』は、橋の南の檜物町(ひものちょう/ 現・八重洲一丁目)花柳界芸者の物語。医学士・葛木が「一石橋」で栄螺と蛤を捨てて(放生)、巡査に訊問される。そこに「お孝」姐さんが助け舟。事件がそこから展開するが、詳しくは次の「西河岸橋」で記す。

 「一石橋」を呉服橋方向へ渡って左折角が「みずほ信託銀行」で、同ビル端に「夢二・港屋の地」の碑あり。竹下夢二30歳、大正3年(1914)に当地で「港屋絵草紙店」を開き、自身デザインの版画、封筒、絵葉書などを売った。岸たまきと結婚、離婚、同棲、また別居と繰り返し、この店で紙問屋の娘・笠井彦乃と出逢ったそうな。

 絵描きが自身デザイン商品の店を開くのは、山東京伝も同じ。彼は30歳で吉原の「お菊さん」と結婚、馬琴が弟子入り。翌年に手鎖50日の刑。33歳の寛政5年に「お菊さん」病死の悲しみのなかで自身デザイン商品を並べた煙草入れ屋を銀座一丁目に開いた。誰もが迷子みてぇ~に生きている。


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