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原寸復刻版を手にして・・・ [江戸名所図会]

edo3tukue_1.jpg 古文書初級「くずし字に親しもう」講座の教材が『絵本江戸土産』だった。そこから、当然の流れで、ずっと気になっていた『江戸名所図会』を手にした。幸い家から東と西、共に徒歩5分の両図書館に『原寸復刻 江戸名所圖會』あり。株式会社評論社の1996年刊。上・中・下の三巻を借りたら、まぁ、あたしの14㌅折り畳み自転車と、ほぼ同じ重さだった。

 監修は田中優子、石川英輔。上巻冒頭で両者連名で「なぜ原寸復刻か」を記していた。・・・何種類かの縮小した復刻版を繰り返し見ておなじみの絵だが、実物をはじめて手に取って息を飲む思いだったと書き始めていた。縮小版では見えなかった部分が(ネット画像もまた粗い画像で同じこと)、原画でははっきりと見える。細密な描写に新たな発見が多い。また数多い名所図会のどれと比べても細密さは際立っている。それで原寸の復刻版を作ることを思い立ったと記す。優子先生(あたしファンなんです)素晴らしい!

 文章は原画(底本)、パノラマ図版などについての説明後に、田中優子著名で<『江戸名所図会』解題>へ。ここではまず、天保五年(1834)に三巻十冊、天保七年(1836)に残りの四巻十冊が、日本橋の須原屋茂平衛・亥八の両店から刊の経緯が紹介され、作者の説明へ。以下、その概要・・・

 神田雉子町の齋藤家は「草創名主」。家康入府時の江戸名主24人のなかの一人。七代目の齋藤幸雄(長秋)は京都の『都名所図会』などに刺激されて『江戸名所図会』制作に取りかかった。しかし寛政十一年(1799)没。この時の絵師は六十歳に近い大家・北尾重政で、彼もまた絵を描かずに亡くなった。八代目・齋藤幸孝(莞齋)が父の事業を受け継いだ。莞齋も版元も人を雇って近郊取材。この時に絵師・長谷川雪旦を迎えた。

 八代目自身も忙しい名主仕事を縫って雪旦と共によく歩きまわったが、文政元年(1818)に48歳で没。15歳で九代目を継いだのが幸成(月岑)だった。彼もまた名声や金銭のためではなく「江戸を記録する」という信念と情熱で無報酬ながら『江戸名所図会』制作に取り組んだ。雪旦も信念は同じだが職業絵師ゆえ、町名主や町年寄らも金銭バックアップをしたらしい。最初の十冊刊行は月岑が数え三十歳のころ。雪旦もまた息子・雪堤と共に親子で絵を描き続けた。また広重も『名所江戸百景』の資料考証に齋藤家を訪ねていたとも書かれていた。

 月岑は後に『東都歳時記』『音曲類参纂』『武江扁額』等々の膨大な著作を残し、明治十一年(1878)没。晩年にはカメラで東京を撮りまくっていたとか。

 次に石川英輔が『江戸名所図会』の構成を説明。江戸城を北極星として、江戸全体を北斗七星に見立てた順で七巻が構成されていると解説。一巻が江戸城周辺。二巻が南下して品川・大森方面。そこから時計まわり放射状に三巻が四谷・新宿・渋谷・目黒・世田谷方面。四巻が大久保・高田馬場・中野・池袋方面。五巻がお茶の水・駒込・王子方面。六巻が上野・浅草・足立方面。七巻が深川・葛飾・葛西方面の順。

 さて、あたしは順不同、気になった場所の頁をひもとき(くずし字の勉強を兼ねて)、また実際に現地を訪ねたりして遊んでみようかなと思い立った。このブログ、また新たな<マイカテゴリー>が加わってしまった。


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