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穴八幡の謎(1)広重の絵 [江戸名所図会]

anahatiman_1.jpg 『絵本江戸土産』四編に広重絵「穴八幡」あり。我が家に至近ゆえアップする。おや、これは本殿に背を向けて楼門(髄神門)を描いてい、文もまた味気ない。

 穴八幡ハ尾州侯戸山の御館(おんやかた)の傍(かたはら)にあり此(この)あたり植木屋多く四季の花物(はなもの)絶ゆることなし

 思わず「広重、どうした」とつぶやいた。そこで再び『江戸名所図会』をみる。「高田八幡宮」として「別当」を含め、お山全景が詳細に描かれていた。下の道から階段を登ると、まず立派な楼門(髄神門)。本殿に向かって右側に手水舎と井戸。広重の絵は何故に本殿を背にしているのだろう。これが最初の謎。(上は広重の絵、下は同方向から撮った写真)

 小生、長年に亘って穴八幡「一陽来復」をいただき、節分の24時に恵方に向けて貼る習慣を続けている。フリーからミニ会社経営で浮沈の世渡り。近所の商店主らと同じく、いつからか「一陽来復」をいただき、ついでに免許証入れに交通安全、財布に御融通様の御札が習慣に相成候。時に儲かれば「一陽来復のお蔭かしら」、苦しさをしのげば「御融通様のお蔭かしら」。穴八幡の術中にはまって、もう止められぬ。

hirosigeana_1.jpg 穴八幡の隣に「別当・放生寺」あり。こちらのお札は「一陽来福」。「復と福」違い。例年、冬至から節分まで長蛇の列をなすのは穴八幡で、「放生寺」がなんだか寂しげでとても気になる。

 いい機会ゆえ、穴八幡のお勉強をする。まずは冒頭の謎。「広重の絵は何故に本殿に背を向けた構図なのか」。現・穴八幡の階段脇に「穴八幡由緒」の看板あり。『江戸名所図会』の長谷川雪旦の絵が大きく添えられている。その由緒文に、こんな一節があった。

 ・・・安政元年(1854)青山火事のために類焼し、幕府から造営料などが奉納されましたが、幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。

 ふむふむ、『絵本江戸土産』は嘉永三年(1850)から安政四年(1857)にかけての刊。この絵は四編に収録で、広重が描こうとした時、すでに焼失していたのではないか。すでに『江戸名所図会』四編は天保七年(1836)刊で、長谷川雪旦の詳細図は世に出ていた。広重はこの絵を参考に描いたのではないか。楼門に浅草寺・雷門と同様の大提灯らしきも描かれていて余計に嘘っぽい。こんな推測で最初の謎が解けたことにして、次に参りましょう。


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