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穴八幡の謎(2)家光までの概史 [江戸名所図会]

anahatiman2_1.jpg 長年にわたって「一陽来復」をいただいてきたが、穴八幡がいかなるお宮かを知らずにきた。今回「穴八幡由緒」看板を初めて読む。まず御祭神は仲哀天皇・神功皇后・應神天皇とあり、文章はこう始まっていた。

 康平五年(1062)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊の先蹝(せんしょう。先例)にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請し、永く東北鎮護として祀られました。

 時は平安時代末期だな。義家は京都郊外・石清水八幡宮で元服ゆえ「八幡太郎」。彼らが氏神様に崇めたのが日本武尊(ヤマトタケル)の子の仲哀天皇、その妃・神功皇后、その二人の子・應神天皇。祭神は神話の領域だな。

 そして江戸時代後期の『江戸名所図会』の齋藤月岑による記述は、こう書き出される。以下、手前の拙い現代文訳で記す。・・・「高田八幡宮」は牛込の総鎮守にして高田にあり。<世に穴八幡とよべり>。この地を戸塚と云う。別当は、真言宗にして光松山放生会寺と号(かう)す。<旧名は威盛院中之坊と唱(とな)へしとなり。祭礼は八月十五日にて放生会あり。旅所ハ牛込神楽坂の中服にあり>。

hosyoji1_1.jpg ここで「別当」のお勉強をしなければいけないだろう。江戸時代は多くの神社の運営管理、読経・祭祀も寺の僧侶によって行われていて、これを「神仏習合」。その寺を別当(寺)と言った。我が家より東にあるのが穴八幡で、北西にあるのが諏訪神社で、諏訪神社脇に玄国寺あり。『江戸名所図会』の「諏訪明神社」の絵を見れば「別當玄國寺」とある。この例のように神社傍にお寺があれば、それは明治維新までは神社の「別当」だと思っていいだろう。

 しかし「尊王攘夷」、天皇を御旗に薩長兵らが「宮さん宮さんお馬の前に~」とトコヤレ節を唄いつつ東征行進し江戸に攻め入った。「王政復古」。天皇の時代になって「五箇条の御誓文」。その三日後に「神仏判然令」(いうところの神仏分離令)。天皇崇拝の神道教義を日本唯一の宗教に統一すべく、他の弾圧が始まった。神社から仏教色を排除、別当(寺と僧)を失くし、天皇絶対化の道が推し進められた。これによって全国で「廃仏毀釈」のとんでもない運動が広がって寺、仏像などが壊された。いったい誰がこんな無茶なことを言い出したのだろう。

 薩長らの維新政府は、こりゃちょっと無茶だったかと改めるが、天皇絶対化は「五箇条の御誓文」から「軍人勅諭」へ、そして「大日本帝国憲法」の「大日本帝国ハ萬世一系天皇之ヲ統治ス」へ至る。この国家神道は終戦で天皇が(神ではなく)人間宣言するまで約80年続いたんでありますなぁ。

 横道にそれたが、『江戸名所図会』は江戸時代ゆえに、「穴八幡宮」の説明は、当然ながら上記の通り、別当の光松山放生寺(こうしょうざん・ほうじょうじ。長谷川雪旦の絵には現・放生寺の所に「別当」の記入あり。写真は穴八幡の隣の現・放生寺の入口。早大戸山キャンパス正面)の記述が中心になる。次に穴八幡宮が何故に脚光を浴びたかを探ってみる。


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