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穴八幡の謎(3)霊窟発見と家綱誕生 [江戸名所図会]

syutugenreikutu_1.jpg 今度は穴八幡宮が何故に脚光を浴びたかを探ってみる。『江戸名所図会』の続きを読む。

  ~社記云(しやきにいはく)寛永十三年(1636)丙午(ひのえうま)、御弓隊の長(おさ)松平新五左衛門尉(さえもんのせう=官職のひとつ)源直次に与力の輩、射術練習の為、此地に的山を築立(つきたて)らる。八幡宮は源氏の宗廟(そうひやう)にして、しかも弓箭(ゆみや)の守護神なればとて、此地に勧請せん事を謀る。此山に素より古松二株あり。其頃、山鳩来たりて日々に此松の枝上に遊ふを以て、霊瑞(れいずい)とし、仮に八幡大神の小祠(こみや)を営みて、件(くだん)の松樹を神木とす。

 八幡太郎の活躍も、やがて平家全盛へ。時代は移って鎌倉幕府へ。源氏から北条の時代へ。そして時代の波を幾つも越えて570年余。いつの間に江戸時代は三代将軍家光の寛永へ。八幡太郎の勧請の祠があったとしても朽ち、石ならば苔むし埋もれていただろう。だがここが射術練習の場となって、再び八幡宮が盛り上がる。その前に、当地がいかなる地だったか。

 文は寛延四年(1751)に酒井正昌が著した『南向亭茶話』からの引用。~<南向亭いわくこの地は早稲田邑(むら)の地中島(ちなかしま)という。この地に青柳六兵衛といへる富民あり。往古(そのむかし)北条家に仕えし士にて、主人の持伝へし山林にてありしとぞ>。 この地、昔は阿弥陀山と呼来里(よびきり)したなり。されどその所以(ゆえん)を知者(しるもの)なかりしに。

syutugendou_1.jpg 阿弥陀如来なる仏教の地に、源義家が八幡宮を勧請したってことか。その勧請から約600年の寛永十三年(1636)に改めて小祠が造られた。そして五年後、寛永十八年(1641)にドラマが訪れる。 『江戸名所図会』の続き~

 同十八年辛巳の夏、中野宝仙寺秀雄法院の會下(えげ・えか。師について修行の僧)に威盛院良昌といへる沙門(修行者)あり。周防国の産にして山口八幡の氏人なり。<幼くして毛利家の侍・榎本氏某に仕えしが、榎本氏没して後、十九歳の年(とし)遁世して高野山に登り宝性院の法印春山の弟子となり、一祀の行法をとけて三十一歳の時より諸国修行の志を発(おこ)しその間、さまざまな奇特(不思議)をあらはせりといふ>。依てこの沙門を迎へて、社僧たらしむ。

 故に同年の秋八月三日草庵を結ばんとして山の腰に切開(きりひらく)時に、ひとつの霊窟を得たり。その窟(いはや)の中(うち)石上に金剛の阿弥陀の霊像一体たたせゐへり。<御長(みたけ)三寸ばかり>。八幡宮の本地にて、しかも山の号に相応するを以て奇なりとす。<穴八幡の号ここに起れり、其旧址、今猶坂の傍にあり>。又この日は将軍家御令嗣<巌有公(四代将軍家綱)>御誕生ありしかは、衆益其霊威を志(し)る。

 かくして寂れていたお山が、威盛院良昌上人の霊窟発見と家綱誕生が重なって一気に盛り上がる。加賀の前田侯が数百の人歩(にんふ)を贈られて地固めして造営。その後も宮居など次々造営。穴八幡を一気にメジャーにした良昌上人とは。お坊さんゆえ隣の「放生寺」へ行ってみる。(写真は『江戸名所図会』の出現地アップと、現「出現殿」の写真)


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