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穴八幡の謎(4)葵の御紋・菊の御紋 [江戸名所図会]

 ananokikumon_1.jpghosyojiaoi_1.jpg「穴八幡宮」を有名にした良昌上人とは。今度は隣の「放生寺」へ行ってみた。境内に「放生寺由来」の案内看板あり。

 放生寺は寛永十八年(1641)威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡)の造営に尽力され、その別当寺として開創されたお寺です。良昌上人は高野山奥の院、安芸宮島、さらに諸国を修行していた折の寛永十六年二月、霊夢の中に老翁現われ、「将軍家の若君が辛巳の年に夏頃御降誕あり、汝祈念せよ」と告げられ、直ちに堂宇に籠って大願成就まで祈願したところ、同年巌有院殿(四代家綱公)が御降誕されました。

 なんだか、これも怪しい世界なり。文章は続く。・・・その後、このことが上聞に達し、大献院殿(三代家光公)が当山に御参拝になり、正保三年御厄払の御祈祷を厳修、慶安二年(1649)良昌上人より寺社の由緒を聞かれ、「威盛院光松山放生會寺」の寺号を賜り、付近一帯は放生寺門前と称されました。(※江戸後期の町名は牛込放生寺門前) 爾来、将軍家の崇信殊の外篤く徳川代々の祈願寺として葵の紋を寺紋に、また江戸城登城の際には寺格として独礼登城三色(緋色、紫色、鳶色)の衣の着用を許されました。さらには、御遊猟の際に当山を御膳所に命ぜられるなど、徳川實記には放生寺と将軍家との往来が詳細に記されています。

 良昌上人のその後は・・・。おもしろいですねぇ、ネット検索すれば、こんなことまでがわかるんです。『江戸名所図会』に周防生まれで、毛利家の家臣に仕えた身とあったが、晩年は元の主・毛利家臣「榎本遠江就時」の菩提寺、山口県長門市の「西の高野山」ともいわれる「大寧寺」で過ごし、そこで亡くなった。新宿は早稲田「穴八幡」に社僧として招かれ「放生寺」を開創と記され、そのお墓は史跡のようになっているとか。

 由来記を読み、お寺を見上げれば徳川の「葵の御紋」なり。参道(坂)を下ると、記述通り「霊場第三十番札所」の石碑、そして梵字が刻まれた板碑上部片あり(写真下)。芳賀善次郎著『新宿の散歩道』によれば、同地より発掘された板碑は阿弥陀を表す梵字で彫られ、南北朝のものではないかと書かれていた。霊窟の阿弥陀様と関係ありやなしや。

hosyojiitahi_1.jpg 再び穴八幡宮に戻って改めて社殿を見上げれば、こちらは天皇の「菊の御紋」(正確には天皇の十六八重菊に、真ん中に八幡宮の時計周りの三つ巴。この辺のことは無知だが、かなり珍しい紋なのかも知れない)なり。

 「穴八幡宮由緒記」には、将軍家祈願所として江戸屈指の大社として壮麗を極めたとあったが、明治元年の「神仏分離令」についての記述はなし。明治維新による<廃仏毀釈、神道国教化>の嵐がいかに吹き荒れ、菊の御紋を戴くようになったか。この辺も謎のひとつだが記述なし。明治維新から大日本帝国へ。「菊(天皇神道)は栄え、葵(徳川)は枯れて」の言葉が浮かび、出兵兵士を送る光景も浮かんでこないワケでもないが・・・。(写真上は放生寺の葵の御紋でお寺さん。穴八幡宮の菊の御紋でお宮さん) 

 ここでは『江戸名所図会』までにとどめることにして、次は肝心の「一陽来復」について。「穴八幡宮由緒」には同御札についての記述は一切なし。さて・・・


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