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穴八幡の謎(5)一陽来復と一陽来福 [江戸名所図会]

 『江戸名所図会』の「出現所」を読む。・・・坂の半腹絶壁にそひてあり。往古の霊窟も旧址なり。近頃迄其地に出現堂と号(なつ)けて九品仏の中(うち)下品上生(仏教用語でお調べ下さい)の阿弥陀如来の像を安置せし堂宇ありしが~」

 良昌上人が発見した霊窟、阿弥陀様について「放生寺」に訊ねれば、「穴八幡宮が最近造った“出現殿”の奥だと思います」。穴八幡宮に戻って訊ねると「いたづらが多かったので霊窟前に扉を設け、それをお守りする出現堂を建立(平成18年)しました」「昔はよく覗きましたが・・・」「公開は一切致しません」。

 さて阿弥陀霊像は何処へ行ったやら。また中腹から出土の阿弥陀を表す梵字の板碑片も気になる。近くに戸塚の地名由来の「富塚古墳」あり。穴八幡も元は古墳の説ありて、霊窟も阿弥陀像も古墳がらみの気がしないでもない。

itiyouraifuku_1.jpgkikutomoe2_1.jpg 出現所脇にあった「布袋様」は昭和44年に穴八幡宮の手水舎に移されている。菊の御紋の本殿前に布袋様はちょっと似合わぬか。そして最後の謎は、やはり「一陽来復」です。「穴八幡宮由緒」看板文には記述なしゆえ、放生寺の「一陽来福の由来」を読む。

 現 在暦や易占の礎となっている書物は「宿曜経」と云い弘法大師空海が平安時代に初めて中国から我が国に伝えたものであります。当山授与の一陽来福は冬至(陰極まって一陽を生ずる)を示す一陽来復に因み、観音経の「福聚海無量」と云う偈文より「福」の字を結んで一陽来福と名付けられました。(中略)。江戸天保年間に、冬至前七日間真言密教による御祈祷を修して、別当放生寺が信徒に授与したのが始まりです。以来、今日に至るまで御修法を師資祖伝継承し、冬至より節分迄の間授与しております。一陽来福が当山由来でありますことは、虫封じと共に古老諸彦の熟知される所であります。

 うむ、明治維新の「神仏分離令」で菊の御紋を戴いた穴八幡宮は、観世音菩薩の仏教も、恵方・節分の「陰陽道」も切り離したはず。しかし穴八幡宮の「一陽来復」をいただくと、その包み紙に、こんなことが書かれていた。 ・・・この御守は江戸時代の元禄年間から行われた穴八幡宮だけに伝来する長い伝統のある「特別の御守りであります。

 江戸時代は、何度も記したが穴八幡宮の運営・祭祀は別当「放生寺」が行なっていた。しかも驚いたことに、こんな記述が続いていた。・・・近年付近の社寺等で類似のお守りを出して居る様ですが、当社とは全く関係ありません。御参詣の方は間違のない様穴八幡宮の御社殿でお受け下さい。

 なんだか欲がらみのイヤらしい記述。ここは『徒然草』の第11段をおくりたい。~大きなる柑子の木の枝もたわゝになりたるが、まわりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。(意はご自分でお調べ下さい)

 『江戸名所図会』にもお札の記述はなかった。昭和48年刊の芳賀善次郎著『新宿の散歩道』にも、穴八幡宮の「布袋像」の説明はあるも「一陽来復」には触れていなかった。昔を振り返れば「一陽来復」のお札を求めて長蛇の列なんてぇのもなかったような気がする。商売繁盛・御融通のお札人気は、なんだか戦後から平成へ、世知辛さ増す世の反映のような気もしないでもない。

 かく言うあたしも長年「一陽来復」をいただいてきた。ここで改めてこう思う。天皇の菊紋好きは「一陽来復」。徳川の葵紋好きは「一陽来福」。強欲なあたしは両方貼って、老い朽ちる前に一度でいいから宝くじが当たってみたい。あぁ、このお札を思えば、己の欲も顔を出す。ちょいとイヤな気分になってきた。(写真は我が家の「一陽来復」と、穴八幡宮の「天皇の十六八重の菊御紋+三つ巴の紋」)。 さっ、この位にして『江戸名所図会』 先に進みましょう。


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