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高田馬場 広重と長谷川雪旦の絵 [江戸名所図会]

ehonbaba7_1.jpg 『絵本江戸土産』の「高田馬場」の文。 穴八幡の傍にあり、この所にて弓馬(きゆば)の稽古あり、また神事の流鏑馬を興行?せらすとあり、東西へ六丁南北二十余間、むかし頼朝記、墨田川よりこの地に至り勢揃ありしといひ伝ふ

 虫食いとネット粗画像で読み難し。次に『江戸名所図会』四巻十二冊「高田馬場」を読む。原寸復刻版ゆえ、読めず・間違いは初心者(あたし)の恥晒し。

 追廻(おひまは)しと称して二筋あり、竪(たて)ハ東西へ六町に、横の幅ハ南北へ三十余間あり。相伝(あいつた)ふ、昔右大将頼朝卿、隅田川より此地に至里(いたり)軍(いくさ)の勢揃ありし旧蹟なりといへり。土人の説に慶長年間越後少将<忠輝卿>(家康六男で松平忠輝。越後高田藩主)の御母堂・高田の君、遊望の儲(もうけ)として開かせらるゝ所の芝生なりしか。

takadanobaba2_1.jpg 「高田の君」は、浜松城時代の家康が鷹狩りの際に、夫の敵討ちを直訴した女で、余りに美人聡明ゆえに城に連れて行かれたとかの茶阿局、後の「高田の君」。この辺に屋敷があったのだろう。文はこう続く。

 寛永十三年に至り、今の如く馬場を築かせ給ひ、弓馬調練の所となさしめらるゝとなり。<或人云(あるひといふ)林丹後守勝正、加藤佐内、河村吉左衛門等是を司とりて築かれたりとあり。又云、北の馬場ハ武田信玄入道、小田原の北条家を攻(せむ)る時、馬を試みられたりし旧蹟なりといふ。北の方の列樹(れつじゆ)は享保の頃、台命(だいめい、将軍令)により風除のために是を植られるゝといへり。延宝天和の頃にて雑司ヶ谷群参(くんさん)の輩(ともがら)、此地にいたり賭的大的小的騎射其外(そのほか)能囃子、土佐外記(とさけき、浄瑠璃だろう)放下(遊芸人、大道芸人)の類出て賑ハしかりとなり>

 馬場誕生から、鬼子母神参拝客がここで休憩し、大道芸人で賑わうまでを記述。斉藤月岑の取材力に改めて感心です。馬場は見物客多く、地元農家が茶店を開いて「茶屋町通り」。文は文字の大きさを元に戻して、こう続く。

 大将軍御代の始にて国家安全の御祈祷の為、御嘉例として此地に於て流鏑馬の式あり、形装善尽し美を尽せり、其式の図説ハ穴八幡の別当放生寺に収蔵せり、文章ハ神田白竜子(享保期の気位高い講釈師で軍学者)撰する所なり。

takadanobaba1_1.jpgmitisirube_1.jpg はは~ん、やはり「放生寺」だ。流鏑馬は目下、戸山公園で開催中。「高田馬場」跡は、現バス停・西早稲田の北側。三叉路角(写真)の寿司屋の壁と、その奥の路地に「馬場跡」の史跡看板あり。「茶屋通り」表示もある。馬場跡の北が「水稲荷」「甘泉園公園」そして神田川へ。「水稲荷」脇に江戸最古・最高と言われた「高田富士」と、その前に「堀部安兵衛之碑」あり。

 「水稲荷」「高田富士」は現・宝泉寺の裏辺りにあったものの、昭和38年に早大キャンパスになって縮小移動させられたもの。「茶屋通り」は古道・鎌倉海道(奥州街道)で、そう言われれば馬場沿いの道の賑わいも頷ける。馬場跡西端に「道しるべ」あり。北に曲がると「面影橋・雑司ヶ谷」と書かれてい、鬼子母神参拝客が立ち寄るのも納得。小生、「道しるべ」より早稲田通り反対側の「子育て地蔵」並びのビル4階に20代半ばから住んでいた。


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