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宝泉寺境内は今、早大・・・ [江戸名所図会]

sinsoudai1.jpgsinsoudai2.jpg 『江戸名所図会』の「高田稲荷 毘沙門堂 富士山 神泉 守宮池 寶泉寺」の俯瞰絵図を見ると、今では想像もできぬ風景。何故?と食いつけば、この俯瞰図一帯が早稲田大学になったと知る。

 早大は相馬永胤(彦根藩生まれ、官軍、維新後は米国で法律・経済を学び、専修大を創立。横浜正金銀行頭取)所有の、後に甘泉園となる地を昭和8年(1933)に取得。その一部を昭和38年(1963)に水稲荷神社敷地と交換。水稲荷跡地に早大9号館を建てた。同地にあった水稲荷(高田稲荷)、江戸最古・最高の「高田富士」は同年に現在地に縮小移転。

 『江戸名所図会』に描かれた地に現存は「宝泉寺」だけか。「穴八幡宮」から早大への坂を下り、早大手前左の「宝泉寺」へ。二十代半ばから馬場在住も、初めて「宝泉寺」に入ってみた。

hosenjiboti_1.jpg 「早大合格祈願」「勝守り」の旗が揺れ、本堂は四角いコンクリート造り。本来の本堂は、現・大隈重信像辺り(写真下)にあったらしい。現・本堂の奥へ進むと、想像もしていなかった広い墓地あり。墓地北面に早大9号館が巨大壁のように聳えていた(写真左)。ここで『江戸名所図会』の「禅英山寶泉寺」の項を読む。

 稲荷と毘沙門両社の別当寺にして、天台宗東叡山に属す。開創の年歴未考(いまだかんか)へす。本尊薬師如来の像ハ伝教大師の作なり。<或人云(あるひといハく)花落鮹薬師と同体なりといへり>

 唐で共に学んで「伝教大師最澄」が天台宗で、空海が真言宗。仏教界の大仲違い。「年歴未考へす」は、古い歴史ゆえにハッキリせぬということだろう。ここは「宝泉寺」のパンフを読んでみる。

wasedaohkuma_1.jpg 『和漢三才図会』や『吾妻鏡』などによると、西暦810年頃の草創と伝えられます。また承平年間(931~938)、平将門の乱を平定した藤原秀郷の草創とも伝えられ、そのどちらをみても千年の歴史を持つ古寺であることがわかります。

 記述はその後の荒廃、再興の歴史が記されて、牛込時国が天文19年(1550)に再興。江戸時代は隆盛を極め、本堂(本尊薬師如来)、毘沙門堂、鐘楼を擁し、なかでも藤原秀郷の念持仏・毘沙門天が安置されていることで有名になり、江戸で最初の「富くじ」が行われた寺となり、また隣接の水稲荷神社の別当となり、そこにある高田富士は江戸最古で最高(10㍍)で、これまた大人気になったと記されていた。

 宝泉寺を有名にした毘沙門天は、インドでは財宝神。七福神では勝負事に利益。お金がらみのご利益、欲がらみで人気になるは、穴八幡宮「一陽来復」と同じであります。一見えらそうで、厳粛そうなお寺お宮も、庶民の欲で支えられているんだと思うと、てぇしたこたぁ~ねぇなぁと思えてくる。

 追記:相馬永胤の説明で「横浜正金(しょうきん)銀行」頭取と記した。永井l荷風はアメリカ~フランスで父のコネで正金銀行ニューヨーク支店、フランスはリヨン支点に勤めた。明治38年~40年の頃で、むろん荷風に真面目な銀行勤めなど出来るはずもない。


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