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関口芭蕉庵(現在) [読書・言葉備忘録]

sekibasyo2_1.jpg 新宿中央図書館が下落合から徒歩56分圏内の旧戸山中(早大理工学部前)に移転してきた。建物の老朽化で、ここはあくまでも仮施設。いずれは新築らしいが予定は未定。他地区には申しわけないが、徒歩10分圏内の東に「戸山図書館」、西に「大久保図書館」、西南に「中央図書館」と相成った。

 

 ここまで図書館環境が充実すると、隠居暮しのライフスタイルも変わってくる。今まではネットで蔵書検索し、読みたい本を借りるべく区内図書館を自転車で一回りだったが、今度は閲覧コーナーで読み遊びする機会も増えた。

 

先日、郷土資料コーナーで横浜文孝著『芭蕉と江戸の町』を読んだ。芭蕉が関口芭蕉庵や深川芭蕉庵へ移ったのは、日本橋の火事のためじゃないか・・と江戸諸資料から検証した芭蕉考察の新展開なり。

 

関口芭蕉庵については、延宝四年(1676)十二月二十七日の日本橋界隈の大火が関係しているとしている。関口芭蕉庵は通説「芭蕉が延宝五年から同八年にかけて神田上水の改修工事に携わった際、龍隠庵に居住したという伝承により、馬光らが五月雨塚を築いたのに始まる」とされているが、実は日本橋の火災で、ここ龍隠庵を避難場所にしつつ、水道工事の職に従事したのではなかろうか、また俳諧師住所録にある「小田原町 小沢太郎兵衛店 松尾桃青」は小田原町が復興して戻ってからだろうと推測。

 

sekibasyo1_1.jpg深川芭蕉庵もしかり、延宝八年に小田原町からの突然移転も、これまた日本橋火災によってだろうと検証。今迄は(1)談林俳諧の否定(2)宗師生活の否定(3)経済的破綻(4)純粋に文芸的なもの(5)芭蕉の妾・寿貞と甥の桃印と密通(下世話好みの嵐山光三郎はこの説がお気に入り)が挙げられていたが、これも延宝八年十月二十一日の日本橋大火で杉風提供の生簀(いけす)番小屋に緊急避難し、住み暮すうちに気に入ったのだろう、と記していた。

 

まぁ、そんなワケで再び「絵本江戸土産」や「江戸名図会」に戻ることに相成候。まずは現在の関口芭蕉庵の写真から。神田川の駒塚橋(昔の駒留橋)を渡ると正面が目白台へ登る胸突坂で、右が関口芭蕉庵、左が大銀杏の関口水門の守護神「水稲荷」。次回は広重絵『絵本江戸土産』の「関口上水端・芭蕉庵・椿山」の絵を見ることにする。


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