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馬琴住居巡り(2)元飯田町の井戸 [新宿発ポタリング]

bakinido3_1.jpg 馬琴の元飯田町の旧居井戸跡は、すでに「日本橋川」シリーズで「南堀留橋」右岸マンション「ニューハイツ九段」の奥まった玄関脇にありと紹介済。馬琴は二十七歳から六十八歳までの三十一年間をここで暮らした。以下、彼が同地に至る経緯とここでの暮らしをダイジェスト。

馬琴は長兄の誘いで下層武士の俳諧メンバーとなって仲間の俳諧冊子、俳諧師匠の追悼書を編集著作、また筆写本で稼いだりするうちに、次第に戯作に興味を持った。寛政二年(1790)、同じ深川育ちの山東京伝に入門。この時、京伝は三十歳だがすでに『江戸生艶気樺焼』などで人気戯作者。しかし寛政三年に「手鎖五十日の刑」。馬琴はその後の京伝宅に半年の居候。寛政四年、二十六歳の馬琴は京伝宅から蔦屋での帳付け奉公を約一年。出版業のノウハウを覚えた翌五年に、友人山田屋半蔵を頼って元飯田町へ。半蔵の義父半右衛門夫婦の世話で元飯田町の履物屋「伊勢屋」のバツ一、三歳年上の「お百」に入夫。

馬琴二十七歳。町人になって人生仕切り直し。入夫数年後に老姑が亡くなると、馬琴は履物屋を八百屋に貸して地続きの裏家に移った。南に池を配した広い庭と十八坪の二階建。十六年前に建替えられた家で、馬琴が二階を仕事場として使用。手習塾、神女湯や奇応丸の製造販売、表家の家賃収入で生活安定を図りつつ読書研鑽。

bakinmotoiidaido_1.jpg近くには旗本山口勘兵衛の家老となった長兄居宅もあり。生活が順調なれば子づくりも盛んになる。四女一男が次々誕生。時代は黄表紙、洒落本から読物へ。馬琴の読本初作は『高尾船宇文』。三十六歳で念願の上方遊歴。江戸に戻った翌々年の文化元年に『復讐月氷奇縁』五巻を大阪江戸で発売。文化四年、四十一歳で『鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月』を刊。全二十九巻の刊が終了したのが文化八年。文化十一年に『南総里見八犬伝』初篇刊。『南総里見八犬伝』も第五輯まで製作出版。ついに人気作家へ至る。馬琴にとって、元飯田町時代は絶頂の日々だったと云えよう。

眞山青果著には明治時代の馬琴宅跡の井戸写真が掲載されていた。現在の井戸は史跡風に拵え直した井戸とわかる。同家屋は明治七年の大火で焼失とか。そして馬琴は…。


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