SSブログ

馬琴住居巡り(4)飼鳥百羽はどの家で? [新宿発ポタリング]

bakinkanaria2_1.jpg 神田明神下同朋町から信濃町の終焉地へ行く前にちょっと寄り道。馬琴の飼鳥はどの住宅から始まったのか。

 神田明神下同朋町での『曲亭馬琴日記』第一巻(文政九年十一年~)ではカナリア、鳩(連雀鳩)、エゾ鳥の記述がある。カナリアは小禽籠で、他は庭籠らしい。文政十年五月八日にはこんな記述あり。

「昼後、エゾ鳥其外庭籠の鳥騒候につき、立出、見候へば、大きなる蛇、縁頬へ上り、庭籠へかかり候様子につき、予、棒を以、手水鉢前草中へ払落し候へば、縁の下へ入畢」。この蛇は何度か出没し、その度に大騒ぎになっている。

さて「連雀鳩」とは? ネット検索でオーストラリア分布の頭にタテガミ状トンガリを有した鳩。文政年間にそんな輸入鳥が馬琴の手に入っていたとは。

そして「エゾ鳥」とは? 日記には「松前老侯より給わりしものなり」で放下するわけにもいかず。「四羽を給わって最後の一羽が天保三年に隕(おち?)る」とある。八年間も生きたそうな。

細川博昭著『大江戸飼い鳥草紙』では『図解日本鳥名由来事典』で菅原浩・柿澤亮三両氏が馬琴の云う「エゾ鳥」を「イソヒヨドリ(雄)」と特定したと紹介し、居職の馬琴は実際のイソヒヨドリを知らなかったのだろうと記していた。

bakinsiseki2_1.jpg

神田明神下同朋町での『曲亭馬琴日記』は上記三種の飼鳥記述だが、確か馬琴は百羽もの鳥を飼っていたはず。眞山青果著『随筆瀧澤馬琴』の「その九」に馬琴の飼い鳥について、こんな記述があった。

…元来、滝澤家は代々小禽ずきの家で、『吾佛の記』によれば馬琴の祖父左仲は浪人後鶯などを養つて娯んでゐるやうだし、父興蔵の死亡の際には鶯、駒鳥、畫眉鳥(ガビチョウ)などの籠禽が六七羽もあり、ほかに鶏もあまた飼育してゐたといふから、それ等の趣味が馬琴に遺傳されたものと見える。

うむ、飼鳥は馬琴の祖父の代から盛んだったような。そして眞山青果は『無益之記』の序文を転載する。

「甲戌(文化十一年)の春、余に小恙あり。夏に至つて尤も留飲に苦しむ。しかれども市中、尺地の逍遙するに由なし。おもへらく、もし試に小禽を養はゞ、日々に運動して気を養ひ、生を養ふべし、因(よつ)て五月に至つてはじめてこの戯(たわむれ)をなせり」

勝手解釈する。文化十一年にちょっと病んだ。胃炎かしら。気分転換に散歩でもすればいいが歩きたい所もなし。しからば心身共に元気になるかなと五月に飼鳥を始めってぇこと。文化十一年は馬琴四十七歳。『南総里見八犬伝』の最初の五冊を書き上げたころ。人気作家ならではの多忙な日々が始まっていた。嫡男・宗伯のために神田同朋町に家を求む四年前。飼鳥開始は元飯田町からということになる。

「しかるに余が性、物に泥り、正に諸鳥を獲て、毛色啼音飼養の事、つばらにこれを極めんとする程に、覚えずその数百数鳥に及べり。その事未だ我が盡さずして怱ち心に倦き、病痾全く癒ずして、嚢中既に空し」

勝手解釈…。凝り性ゆえに色や鳴き声のさまざまな鳥を集め極めようとして、たちまち百数羽に及んだ。だが集め切らぬうちに飽き、病気も癒えず虚しくなった。文は続くが、まぁ、そんなこんだで鳥を放下したと書かれていた。

なお、ネット検索で<鈴木道男by馬琴の鳥研究(1)『八犬伝』と鳥>がヒット。最初にウソ♂を得たのが文化十年で、上記は翌年の記ゆえ、一年程で飼い集めが醒めたのだろうと記していた。

写真は眞山青果全集に載っていた馬琴筆のカナリア籠。「おぉ、馬琴さん、絵うまい」。眞山青果は「ほとんど画才のない馬琴には、一丁の挿絵をまとめるにもかなりの苦心であったらしく…」とあるが、絵師に少しの自由をも与えぬ詳細指示(ラフコンテ)を長年描いているうちに「次第に絵の腕を上げたていた」と記すべきだったのではと思った。

~カナリヤのカゴの事 江戸にてハ蒔餌籠といふ 文鳥のかごとは相にて 文鳥のかごより小さし~と書いてある。「くずし字」の勉強を兼ね、この自筆本を拝見したいがあたしにはお目にかかれぬ。話が「飼い鳥」に脱線したので、次は終焉の地・信濃町へ行ってみる。


コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。