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馬琴住居巡り(5)信濃町・終焉地はどこ? [新宿発ポタリング]

sinanomatibakin1_1.jpg かつて四谷・若葉町辺りをポタリング中に、史跡案内図板に「馬琴終焉の地」の印を見た。「よしっ」とばかりに辺りを走りまわるも、その史跡標示は見つからなかった。探し方が悪かったのではなく、史跡板がないのだ。なんらの事情で撤去されたかと推測した。昭和48年刊の芳賀善次郎著『新宿の散歩道』をひもとけば、馬琴終焉地の索引はあるも指定頁に記事はなし。「謎」となった。

 眞山青果に『瀧澤馬琴住居考』あり。眞山生前の未発表遺稿。大正末期の数々の馬琴研究から昭和十五年頃にわたる再調査記録で、昭和二十七年の『真山青果随筆選集』に補綴整理収録されたもの。そこに、こう書かれていた。

…馬琴終焉の地たるこの居住地については、先年饗庭(饗庭篁村:あえばこうそん)先生にもお尋ねしたが、判然たる御回答は得られなかった。先生も先年、馬琴の孫つぎ女の指示によって二度ほどあの辺を探訪せられたが、当時甲武鉄道(現在の中央線)の線路工事でそれらしい地点を発見せられなかったと云ふことであった。その後、後藤肅堂氏なども数次にわたって踏査されたが、やはり得るところがなかった。

sinamomatibamin5_1.jpg眞山青果は、当時の地図から「一行院=千日寺」の坂の上側にある「御持組大縄地」だろうと推測。それなら小生にも「江戸切絵図」から簡単に割り出せる。その地内に組の者(六軒)が集合してい、その中の間口六間、奥行四十間、坪数二百四十坪の細長き長方形(馬琴は箸箱形と記す)で、東方に六間に九間の竹藪がある屋敷。それは省線信濃町駅に近い南側…と書かれていた。

昨年春、信濃町・外苑休憩所にソバチェーン店「日高屋」が開店し、その垣根に突然「新宿区指定史跡 滝沢馬琴終焉の地」所在地:新宿区霞ヶ丘町十四番一号 指定年月日:平成二十五年三月二十七日と記された史跡板が立てられた。

 「日高屋と滝沢馬琴」は似合わぬが、何故にその地に指定相成ったかは後述するとして、まずは馬琴の終焉地移転の経緯をまとめてみる。彼は大名抱医師となった嫡男・宗伯の病死で、再び士族ではなくなった。そこで孫・太郎9歳を武士にすべく、百三十両を工面して御持筒組の四谷信濃町組屋敷に住む同心の御家人株を取得。孫が幼いゆえに嫁・路の遠縁(従弟格)の青年を養子として着任させて、天保七年(183670歳で同住所に転居した。

すでに馬琴の右目は失明。文学無知のお路に文章を教えつつ口述筆記。一冊二冊の努力が実って、馬琴の両目失明なれど遂に『八犬伝』を完成。天保11年には太郎も元服して正式に御持筒同心へ。従弟格に「身分片付け料」八両を払ったとか。

馬琴は嘉永元年(1848)、82歳で没。日記をつけることを馬琴から引き継いだお路は「端然として御臨終」と記した。翌年、太郎も病死。長女「つぎ」に滝沢琴童の名が与えられ、版元らが『八犬伝』ダイジェスト著述などの仕事をまわしたとか。なお「お路」は馬琴没の十年後、53歳で没。「路女日記」が1994年に八木書店刊。未読だが、庭の樫の大木を新宿の湯屋に二両二分で売った。四谷の桶屋に裏の竹藪の三分に二を売って一両一分など、馬琴の教え通り詳細な生活記録が綴られているとか。

自転車で巡る「馬琴住居巡り」は生誕地・深川~九段下の元飯田町~神田明神下同朋町~信濃町・終焉地で終了。しかし「信濃町・終焉地」の特定が如何に行われたかの「謎」が残る。次にそこを探ってみる。


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