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(7)艶二郎と荷風の刺青 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki3_1.jpgゑん(艶)二郎ハまづほりもの(彫り物)がうわきのはじまりなりと、両ほうのうで(腕)、ゆび(指)のまたまで二、三十ほどあてもなきほりもの(彫り物)をし、いたい(痛い)のをこらへて、こゝかいのちだとよろこひけり。

吹き出し風に艶二郎「いろおとこ(色男)ニなるもとんだつらいものだ」

喜之介「中にちときへた(消えた)のもなくてハわるいから、あとでまたきう(灸)をすへやせう」

「バカだねぇ」。笑ってしまった。そう言えば永井荷風も三十歳で、慶應義塾大文学部教授の身でありながら、新橋の芸妓・富松(吉野コウ)と相惚れで、よほど情が昂ぶったのだろう、左の二の腕内側に「こう命」の刺青が彫られた。互いに彫り合うのだろう。後で荷風は「富松は近眼で細字では墨が入れ難く、その字の大きいことよ」と悔やんでいた。荷風は富松の身体のどこに「かふう命」と彫ったや。この辺のことは秋庭太郎著『考証永井荷風』に書かれている。荷風もエッセイ集『冬の蠅』の「きのふの淵」で、富松との出会いと別れを書いている。

刺青と云えば谷崎潤一郎のデビュー作『刺青』も思い出す。荷風が激賞し、谷崎青年は震えるほど喜んだ。谷崎は端からマゾ系変態だった。あたしは生まれ育ちが板橋と北区の境目辺り。子供時分は北区の銭湯、板橋区の銭湯の両方に通っていたが、時に倶利伽羅紋々の職人さんがいたような気がする。


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