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(12)吉原の「ありんす言葉」 [江戸生艶気蒲焼]

ukina2_1.jpg ゑん二郎ㇵうきなやのうきな(浮名屋の浮名)といふて(手)のある女郎にきめてとうがとうなから(十が十ながら)ほれられるつもり(惚れられる積り)にて、いつぱいニミへをし、ぢばんのえり(襦袢の襟)ばかりいぢつていて、いろおとこもさてきのつまることなりとおもふ。

 喜之介「大こくやじやアねへか、なんでも女郎衆のそうろくだね」 志庵「モシおいらん、おまへをバ、せけんでとんだて(手)のある女郎だと申ます」 浮名「ちゃ(茶)をいゝなんすな、おがミんす」

 「て=手」は手練手管の手。客扱いがうまい。「とうかとうながら=十が十ながら=初めから終わりまで、すっかり、みんな」。「大黒屋」は吉原検番を創設した大黒屋惣六のこと。女郎の総元締め。「て」の権威の意。日本歴史人物事典にこうある。大黒屋庄六。吉原の検番を創設。烏亭焉馬が彼をモデルに浄瑠璃「碁太平記白石噺」に大福屋惣六の名で妓楼主人として登場させ、のちに大黒屋惣六として演じられた。

 「ちゃをいいなんすな、おがみんす」は吉原の「ありんす言葉」。「ちゃ=茶=茶々を入れる」で「茶々を言いなすな。頼むからやめてください」の意。「ありんす言葉」は全国から集められた女たちが各方言を遣っていたのでは情緒もなかろうと、方言・訛りなしの廓言葉を造ったとか。廓というひとつの言語国を作ったわけで、凄いアイデアです。

 くずし字は濁点が付いたり付かなかったり。江戸以前はまったく濁点なしとか。ゆえに例えば「てゝ」は濁点なしで「てて・手で・出て」で、さて、どれだろうかと頭をひねることになる。

 ここで当時の歴史のお勉強。『江戸生~』は天明五年春の刊だが、天明二年(1782)から西日本・東北から「天明の大飢餓」が始まる。天明三年には浅間山大噴火で東日本にも飢餓が拡大。津軽藩、南部藩、仙台藩だけでも餓死者五十万人とか。米不足は天明七年にピークで、江戸でも米屋や豪商が打ち壊し。百文で一升の白米が買えたが、この年はひと握りの米も買えなくなったとか。この頃、北斎は「春朗改め群馬亭」。歌麿は蔦重の許で修行中か。共に和印(春本)も書かねばとても食ってはゆけない。田沼意次が失脚して松平定信が筆頭老中になると、その和印も描けなくなる。(講談社刊『日本全史』、桜田常久『画狂人 北斎』などを参考)


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