SSブログ

メモ:鳶魚『岡場遊郭考』の新宿(21) [甲駅新話]

naitoumokei_1.jpg 三田村鳶魚(えんぎょ)『岡場遊郭考』に、内藤新宿の記述あり。同随筆は同氏編で昭和二年より三年間にわたって刊行された『未刊随筆百種』の二十三冊に収録。昭和五十一年に中央公論社より『鳶魚全集』が出た際に、同社より姉妹出版の形で全十二巻の形で再刊。お目当ての『岡場遊郭考』は第一巻に収録。さっそく図書館でひもといたが、内藤新宿の記述はわずか六頁だった。その一部を紹介。

 まず『世俗奇語』に云~とあり、こう引用されていた。~此地、甲州街道旅籠屋飯盛女あり、明和安永の頃ハ殊之外盛んなり、陰見世には美服を著し、紅粉の粧ひ、恰も吉原におとらぬ春花を置たり、見世は三人ツゝはる事なり。

 次の『江戸図解集覧』に云とあり。~今按(したべ)るに、旅籠屋政田屋・和国屋・国田屋・山田屋・高砂屋など玉揃といふべし、山崎屋は越後国の玉多し、料理よろし、政田屋は美玉にてきやんなり、岡田屋は座敷奇麗なれば、人のたとへに政田屋の玉ならべ、山崎屋の料理にて、岡田屋の座敷にて遊ばんといへり。吉原よりも女郎来る事あり、茶屋は山科屋を第一とす、当時南北の国より賑ふ所なり、安永の始に三光稲荷祭りの際、上総屋(今品川へうつる)の前より橋本屋迄往来を袴せ、橋燈籠を懸たり、近頃度々此祭りに怪我ありて、今はかくの如き事なし。又北横丁に双蝶菴又八(当時市ヶ谷自性院前にあり)といふ者あり、新宿の判人にて、女郎のとや内、双蝶菴にて養生す。(写真下は三光稲荷、現・花園神社の祭り風景)

aisatu_1.jpg 『江戸名所図会』の「四谷 内藤新宿」の絵の余白に「節季候の来てハ風雅を師走かな」の芭蕉句が書かれ、年末ゆに見世仕舞いしたのだろう、格子が開け放たれた見世前に、節季候(せきぞろ=年末に店先で踊り囃しでお金を乞う)が来て、見世前を通る様々な人が描かれている。その見世脇の用水桶に「和国屋」の文字。さて、どんな店かとずっと気になっていたが、推測していた通り旅籠屋(女郎屋)だと判明した。

 「三光稲荷」は現・花園神社。「とや」は梅毒。「判人」は遊女の身売り保証人になる人、女衒(ぜげん)。この文より遊郭には当然ながら性病(特に梅毒)の危険があったことが伺える。野村敏雄著『新宿っ子夜話』の「ハナの散るらん」なる章あり。

akibajinnjya_1.jpg 嘉永元年(1848)に廓内で二、三百両も使って大名行列をした(それほど儲かっていた)勢州楼に、明治中頃に越後出身の十八歳「玉河」というお女郎がいた。彼女が明治二十九年の新宿大火前に「秋葉(神社)さま(左写真。現・地下鉄の新宿御苑前駅出入り階段口の横)の屋根に白い鳥が飛ぶのを見た。白い鳥が飛ぶと大火事がある」と予言。下町(現・一丁目)一帯、街道の両側二百四十三戸が全焼した。その「玉河」さんが、後に「とやについた」。「とや=鳥小屋=冬毛に換わるために羽毛が抜けるので鷹を鳥小屋に入れる=遊女が梅毒で髪が抜け、養生のために仕事を休む=鳥屋につく=鳥屋籠り」。そして、ハナが落ちた後の悲惨な人生が描かれていた。

 『岡場遊郭考』に戻る。次は寛政二年の「明寛秘録」よりとして ~吉原と同じく繁盛したので吟味があった。部屋持女、黒塗之箪笥、食売女のちりめんにお叱りがあり、以後、衣服は木綿、女は三人までの御達しが文が転載されて、二十三の旅籠屋名が列挙。旅籠屋名入り地図も掲載。最盛期は茶屋、大見世の総数八十軒余とも記されていた。(写真上は新宿歴史博物館の内藤新宿の街並み模型)


コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。