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内藤新宿の投げ込み寺・成覚寺‐Ⅰ(32) [甲駅新話]

seikakuji_1.jpg 『甲驛新話』登場の女郎は二十二歳の三沢さん、嫌な客には「あしか」となる綱木さん。田舎客の骨を抜く折江さん。茶屋の女将(後家)も女郎上がりと説明されていた。メモでは鈴木主水に惚れられた「橋本屋」白糸さん。ハナが落ちた勢州楼の玉河さん。内藤新宿を廃駅に追い込んだ内藤大八の馴染が「信濃屋」千鳥さん。豊倉屋の女郎から横浜・富貴楼女将となって明治の政治家、財界人の間で大活躍したお倉さんが登場した。

 年季を無事に勤め上げるか、お倉さんのように身請けされるかして苦界を脱した女性たちはどれほどいたのだろうか。廓で病み亡くなって、投げ込み寺に葬られた方が多かったようにも思われる。吉原の投げ込み寺は箕輪「浄閑寺」で、内藤新宿は「成覚寺」だった。

 永井荷風は「浄閑寺」を訪ね、「余死するの時は、娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ」と記した。荷風四周忌(昭和38年)に「新吉原総霊塔」前に詩碑と墓碑が建てられた。詩は「偏奇館吟草」より「戦災」の詩が刻まれ、墓碑に遺歯二枚と愛用筆が収められて筆塚とされた。

kodomogoumaihi_1.jpg 荷風の真似は出来ぬが、『甲驛新話』完読にあたって、遊女らの霊を供養して〆るのがいいだろう。靖国通りに面した成覚寺を訪ねた。「寛政の改革」で自害した(だろう)恋川春町の朽ちかけたお墓は、すでに幾度か参っているが、遊女らの掃墓は初めて。

 本堂に向かって左側に「子供合埋碑」あり。その左の枝垂れ梅の奥に「鈴木主水」の〝白糸塚〟。「子供合埋碑」前に新宿区指定有形文化財歴史資料として説明板あり。こう記されていた。 ~江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)十一月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。もともと墓地の最奥にあったが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移設された。宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な歴史資料である。

asahijizou_1.jpg 読んでいると、ご住職が声をかけて下さった。『甲驛新話』を読んで言うと、丁寧に説明して下さった。成覚寺が投げ込み寺になったのは享保元年(1718)の廃駅から約五十年後の明和九年(安永元年、1772)の復驛から間もない安永五年(1775)からとか。なんと『甲驛新話』刊の翌年である。明治五年(1872)までに二百十七名(大半が十六歳から二十三歳)が埋葬されたそうな。はっきりした数字や年齢が把握されているということは〝過去帳〟があってのことだろう。

 「惣墓=共同墓地」。この「子供合埋碑」は実際に埋葬した「埋め墓」とは別の「拝み墓」。実際の「埋め墓」でお参りすれば〝霊が付く〟と嫌われて、旅籠屋仲間が協力して造った「拝み墓=供養碑」だと説明下さった。

 もうひとつ、恋川春町の墓の説明文と並んで、新宿区指定有形文化財歴史資料「旭地蔵」説明あり。~「三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。これらの人々は寛政十二年(1800)から文化十年(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうち七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客たちであると思われる。これらの人々を供養するため寛政十二年七月に宿場中が合力し、新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。別名〝夜泣地蔵〟とも呼ばれていたと伝えられる。明治十二年(1879)七月道路拡張に伴いここに移設された。宿場町新宿が生み出した悲しい男女の結末と新宿発展の一面を物語る貴重な歴史資料である。

 寛政十二年の翻迷信士と環浄信女から、文化十年の松野屋での心中、離間信士と照闇信女まで十九人の戒名が刻まれ、横に施主名の碑。豊倉屋、伊勢屋、中村屋など二十四の旅籠屋名が並んでいた。成覚寺の説明では、その後の大黒屋の心中が武士と遊女で、「享保の改革(吉宗)」で情死を〝相対死〟として厳しく取り締まるようになって、以後の情死は表沙汰にしなくなったのだろうと説明。そして気になったのが「無縁塔」だ。吉原・浄閑寺の「総霊塔」にどこか似ている。(続く)


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