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湾岸3)江戸の海、東々へ [新宿発ポタリング]

masakadokubizuka_1.jpg 「勝鬨橋」「佃大橋」を渡って東京湾埋立地を自転車で散策した帰りに、大手壕前の「将門首塚」を参ることがある。将門は平安中期・天慶3年(940)没。〝弱きを助け強気を挫く〟坂東武士として関東を収めるも〝朝敵〟となって命を落とした。「築土神社」「神田明神」他に祀られて大田道灌、徳川家康の武運神となり江戸の総鎮守になった。

 大手町のビル群に囲まれた「将門首塚」に参りつつ、この地の昔々を想った。家康が入府したのが天正18年(1590)。大田道灌没後に荒廃していた江戸城再築と江戸の町作りに着手。まずは江戸城と隅田川を結ぶ「道三濠」(後の日本橋川)を開削して物資搬入水路とした。

kudanzakatoudai_1.jpg 家康入府から12年後の慶長7年(1602)の地図を見ると、遠浅の日比谷入江がここまで伸びていた。慶長5年「関ヶ原の戦い」2年後に征夷大将軍。「大阪の陣」後に全国の大名を動員した「天下普請」を展開。上水、物流水路を整備し、水路を掘った土、神田山を崩した土で低湿地帯を埋めた。日比谷入江が現・東京駅、有楽町、新橋に。日本橋川と八丁堀沿いの町々も整った。外濠内は大名上屋敷で、将門首塚の地は酒井家上屋敷となり、神田明神は駿河台に移転。その神田明神に漁民らが大燈籠を建てた。明治4年建立の九段坂・常燈明台も灯台の役目を果たしていた。明治になっても、ちょっとした高台に上れば眼下に海が広がっていた。

 東京湾浚渫の土で「石川島・佃島」の南に「月島」が出来たのが明治。しかし両島に渡るのは未だ渡し船で、明治36年に相生橋架橋。勝鬨橋開通が昭和4年(1929)だった。一方、江戸のゴミは明暦1年(1655)に船に積んで永代島(現・富岡八幡辺り)に捨てられ始めたが、元禄9年(1696)から東京湾奥の低湿地帯に指定場所を定め、満杯になればさらに海側へ捨てられるようになった。

 長くなったので「将門の首塚」参りでの<東京湾の歴史のおさらい>をここまでにする。次は江戸・東京のゴミについて勉強することになりそう。(参考書は後で一覧)


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