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鶉衣18:飛鳥山賦‐酒宴可の花見 [鶉衣・方丈記他]

asukahissya_1.jpg けふはこの事かの事にさはる(障る)事あり、あすは飛鳥山(あす・飛鳥山の語呂)の花みんみんと(見よう見ようと?)、心に過ぐる(上代語。過ぎる)日数もやゝ弥生(やゝ・弥生の語呂)の廿日あまり(新暦で五月上旬)、尋ねし花は名残なくちりて、染めかはる若葉の其色としもなきも(新緑の季節の感だが)、春を惜しむ遊人は我のみにあらず、爰に酒のみ、かしこ(彼処)にうたひて、此夕暮に帰るさわするゝも、中々心ふかきかた(深いおもむき)におもひなさる。「ちり残る茶屋はまだあり花のもと」

 山下千里のまなじりさはる(目に障る)物なくを、らうらうと霞みわたれる田野村落の詠(なが)めえならず、きせるをくゆらすこと暫時あり。「雲雀より田打へ遠し山の上」

 「飛鳥山賦」の「賦」は古代中国の韻文の一つ。叙情的要素より羅列的に描写する文体。「えならず=副詞(え)+四段動詞(成る)の未然形+打消しの助動詞(ず)=並大抵ではない、普通ではない」。「雲雀より田打へ遠し山の上」は、山の上では空で鳴くヒバリより田を耕す姿の方が遠くに見えるよの意。

asukayama1_1.jpg 絵は広重「名所江戸百景」の飛鳥山。上野の花見は酒が御法度だったので、庶民は飛鳥山で酒宴したそうな。さて、也有は尾張藩用人の父を継いだ後、二十九歳で江戸勤番。六代藩主・継友没から七代の宗春に仕えた。だが宗春は将軍・吉宗の倹約施策に逆らって、真逆の「温知政要」で華美・享楽を展開。よって元文四年(1739)に吉宗に隠居謹慎させられた。最初は尾張藩中屋敷(現・上智大)に謹慎で、新藩主は宗勝へ。也有がこの文を記したのは寛保元年(1741)、四十歳。波乱万丈の尾張藩の江戸勤番はさぞ大変だったろう。冒頭の〝この事かの事さはる事あり~〟に愚痴を言いたい心情が吐露されている。かくして花見の時期を逸しての飛鳥山。それでも楽しかったと健気なことを記している。


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