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行くところ無き身の墓詣 [永井荷風関連]

wasidukidouhaka1_1.jpg 昨今の政経のお勉強をするってぇと、心が卑しくなってくる。それを払うべく自転車を駆ることにした。行き先を定めず家を出た。まず自宅から右か左かの選択。左を選んだら戸山公園~早稲田~江戸川橋と流れた。ここから後楽園。白山通り・本郷通りを横切ったら根津・谷中。谷中墓地に至った。

 荷風さんは掃苔(そうたい)好きだった。よく文人らのお墓を訪ねている。大正十二年八月十九日の「断腸亭日乗」は親族のお墓を巡っていた。「午後谷中瑞輪寺に赴き、枕山(縁者)の墓を展す。天龍寺とは墓地裏合せなれば、毅堂先生の室佐藤氏の墓を掃き、更に天王寺墓地に至り鷲津先生及び外祖母の墓を拝し、日暮家に帰る」

 数年前に徳川慶喜公墓を訪ねた際に、永井荷風の外叔父・鷲津毅堂(儒教者)のお墓を探したがわからなかった。今回は案内図によって位置を確認。二度目にして掃苔相成った。鷲津家の広い墓地中央に神道の角柱の墓があった。左から「鷲津宣光配佐藤氏之墓」「司法権大書記官従五位勲五等鷲津宣光墓」「鷲津宣光後配川田氏之墓」(神道は戒名なし)。左が先妻、中央が毅堂、右が永井荷風の母を生んだ後妻のお墓だった。

 荷風は『下谷叢話(そうわ)』の「第三十」で、毅堂の妻や子らの詳細を記している。~鷲津毅堂は安政戊午(つちのえうま)の秋其の妻佐藤氏を喪(うしな)ひやがて継室(後妻)川田氏を娶ったのであるが、その年月を詳(つまびらか)にしない。然し長女友(ゆう)が生れた後、此年文久辛酉(かのととり)の九月四日に次女恒(つね)が生れた。但し明治の後に至って調整せられた下谷区の戸籍簿には恒を以て長女と記してゐる。恒は明治十年七月十日神田五軒町の唐本書肆の主人林櫟窗(れきそう?)の媒酌で、毅堂の門人尾張の人永井匡慍(まさはる、通称・久一郎)に嫁した。恒は今こゝに下谷叢話を草してゐるわたくしの慈母である。毅堂の継母川田氏は名を美代といふ。

 永井荷風は文壇にも、翼賛体制の政治にも無関心を装って隠棲を貫いた。あたしも心卑しくさせる「政経お勉強」から手を引こうかしら。最後に昭和十年一月二日の「断腸亭日乗」に記された五句のうち「行くところ無き身の春の墓詣」。この日の小生も、同じ気持ちで谷中墓地へ走ったことになる。


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