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藤田嗣治2:エコール・ド・パリ [スケッチ・美術系]

picasso1_1.jpg 藤田嗣治が新婚新居「百人町18」からパリに旅立ったのは1913年(大正2年)。パリのアートシーンは「エコール・ド・パリ」全盛期。小生の絵画趣味は最近ゆえに「エコール・ド・パリ」を知らず。

 先日読んだ池田満寿夫の書に、憧れのピカソ「洗濯船」を見学するも面影なしと記されていた。竹久夢二「黒船屋」がヴァン・ドンゲン「黒猫を抱く女」の剽窃。別の著者はそれをマリー・ローランサンと間違えて記していた。そのピカソもドンゲンもローランサンも「エコール・ド・パリ」の画家。やはり少しはお勉強しておきたい。

 「エコール・ド・パリ」は1900年代初頭から1930年に世界中からパリに集まって新しいアートを生んだ芸術家らの総称。間に世界第一次大戦を挟むも、彼らは貧しさの中で新たな絵画を模索し続けた。まず1904年にピカソがパリはムーラン・ルージュのある歓楽街モンマルトルの集合アトリエ住宅「洗濯船」に入居。その名は、詩人ジャコブがセーヌ川の洗濯船と同じく歩くとギシギシ軋むことから命名とか。ここでピカソはあの「アヴィニヨンの娘たち」などキュビスム作品を生んだ。

 「洗濯船」では詩人アポリネールが60歳のルソーを認めて〝夜会〟を開催。他にヴァン・ドンゲン、ブラック、レジェ、モディリアーニ、パスキンらもモンマルトルに集まっていた。しかし同地の観光化で、彼らはモンパルナスに移住。ピカソも1912年に同地へ移住。

 モンパルナスには1910年頃から「ラ・ルージュ」(パリ万博で使われた建物を集合アトリエに改造)にシャガールなどが入居。「シテ・ファルギエール」(貸室12、貸アトリエ20)に藤田嗣治ら日本人画家やモディリアーニ、スーチンらが入居。近くのカフェは彼らアーティストらで賑わった。

 「エコール・ド・パリ」の代表格には他にキスリング、オルロフ、ザッキンなど。マティスはすでに大家で、自宅アトリエで画塾を開設。画家のほかに詩人ジャン・コクトー、作家ヘミングウェイ、作曲家ガーシュイン、かのヘンリー・ミラーも書けずに酔い潰れていたかで〝狂乱の時代〟を彩っていた。大雑把だが、にわか美術趣味にはこの辺でヨシとしようか。

 美術書を読むと、画像なしでその絵を論じているケースが多々で、理解し難い場合がある。そこで「あぁ、教科書にあったあの絵か」と思っていただけるようラフ模写してみたが、著作権的にはこれでも不可か。

 ※キュビスム(英語はCubism=キュービシム)は従来の一視点ではなく対象を多角度で捉えようとする立体派。ドイツのカンディンスキー(またはバウハウス)の抽象画などと、その後のモダンアートの出発点になった。


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