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藤田嗣治3:パリの交流録 [スケッチ・美術系]

fujitaparis1_1.jpg 近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』より、藤田の画家らとの交流から「エコール・ド・パリ」の様子を探ってみよう。藤田がパリの地を踏んだ1913年(大正2年)は印象派からキュビスム、シュールレアリスムの時代に突入していた。

 すでにピカソもマティスも大家で、ヴァン・ドンゲンも邸宅暮し。藤田が同邸の夜会へ行けば、老案内人が客からのチップをポケットに入れてい、それが実はドンゲンで、悪戯好きの二人は意気投合。日本人画家では川島里一郎と親交。川島がギリシャ舞踊を習っていて、共にギリシャ衣裳でパリを闊歩。

 41歳の島崎藤村もパリに来た。彼は藤田と同じく「百人町」の在住時に愛児三人と妻を亡くして前述「長光寺」へ埋葬。その後、姪・こま子を妊娠させて日本を脱出。妻を「百人町」に置いたままの藤田と交流を重ねた。(追記:大正3年1914年の寄せ書きが、2019年6月に初公開。そこに「東京大久保百人町30」と記されていた)

 藤田はピカソのアトリエを訪ねた後で、パリ印象派を学んで画壇重鎮の黒田清隆ご指定の絵具を叩きつけたとか。第一次世界大戦勃発で人々が去ったパリで最後まで絵に精進。アパート隣室はハイム・スーチンで、藤田は彼を膝枕で虱を取るのが恒例。そのまた隣がモディリアニで、彼がカフェでキスリングと喧嘩をすれば仲裁役になった。藤田は1日14~18時間も一心に絵筆を握って、気付けば髪が顔を覆い、バッサリと切れば、あのオカッパ頭になった。

 1917年、年上で姉御肌のモデル、フェルナンドと結婚(7年間)。彼女の尽力もあって安価ながら画商もついた。同年初夏に第1回個展。ピカソがそれら絵の前で立ち尽くした。この時期はキュビスム、アールデコ風にもトライ。戦火厳しくなって、画商手配で南仏へ。同行は藤田夫妻、モディリアニと恋人、スーチン。同地で76歳のルノアールを訪ねた。

 1918年11月、3度目の個展。収入急上昇。翌年再開の「サロン・ドートンヌ」に6点入賞。藤田の「私の部屋 目覚まし時計のある静物」がフランス国立近代美術館へ、「自画像」がベルギー王立美術館へ。また「キキ」モデルの「裸婦」で、あの「面相筆の墨の輪郭線+乳白色の肌」を完成。名実ともにパリ画壇の寵児。カット絵は藤田嗣治の仲間らモディニアニ、ヴァン・ドンゲン、ハイム・スーチンの絵を不透明水彩で描いた。


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