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佐伯祐三1:下落合アトリエ [スケッチ・美術系]

usatelier1_1.jpg 下落合の「佐伯祐三アトリエ記念館」公開は5年前。外壁の悪戯書きを見ているから、それ以前に訪ねているように思う。その近くの「中村彝(つね)アトリエ」(廃屋当時)と併せてウォーキングコースにしていた時期があるから幾度も訪ねている。

 中村彝は「伊豆大島」がらみで評伝書や画集を、また「新宿中村屋」がらみで相馬黒光(創業者夫人)関連書も読んだが、佐伯祐三については知らぬまま。20代後半頃のクライアント社長室に佐伯祐三(荻須高徳だったかも)の、文字入りのパリ風景画があったと記憶している。

 先日まで藤田嗣治関連書を読んでいた。藤田が大久保百人町からパリに出発し、四度目の妻マドリーヌが戸塚(高田馬場通りの現シチズンプラザ裏辺り)のアトリエでの怪死も知った。佐伯祐三も同時期にパリへ行き、近くの下落合にアトリエがあるならば、やはり佐伯祐三についても知りたい。

 すでに藤田嗣治関係で落合莞爾『天才画家「佐伯祐三真贋事件の真相』を読んだ。これがまぁ〝とんでもない本〟だった。概要はこうだ。上原勇作(陸軍の雄、加山雄三の曾祖父?)の「草(特務)」として働く吉薗周蔵という男あり。佐伯祐三は大阪光徳寺の次男。同寺は浄土真宗本願寺系で、本願寺門主・大谷光瑞(大谷探検隊、孫文の中華民国政府の顧問など)が佐伯祐三に目をつけた。将来の〝草〟にすべく芸大に入れておきたい。そこで大谷~上原~吉薗へと令が下る。佐伯は絵は上手いが学力不足。周蔵の裏工作で無事入学。

 以来、周蔵はなにかと佐伯の面倒をみた。金がなければ絵と交換で資金提供。さて、藤田の赤毛の妻マドレーヌが戸塚アトリエで死んだ際に駆け付けたのが「救命院」牧野三伊医師。周蔵の表向きは同院精神科カウンセラーで、周蔵も現場へ行けば牧野医師が「病院事務長に報告せよ」。何故かと尋ねれば、事務長は特高諜報員で怪死を穏便処理。

 話を祐三と周蔵に戻す。周蔵は佐伯から絵をもらう代わりに資金提供していたから、周蔵の手元には多数の佐伯祐三作品があった。周蔵が亡き後に娘が佐伯作品を世に出したことで、「真贋事件」へ発展する。ねっ、とんでもない書でしょ。次に読んだのが佐伯祐三評伝の一人者・朝日晃『そして、佐伯祐三のパリ』(平成13年刊)。箇条書きの多い書で、どうやら21年前の自著の誤り検証の書らしい。

 以上、変な佐伯祐三関連書を読んでしまったので、ここらで仕切り直しと「佐伯祐三アトリエ記念館」を訪ねてみた。久しぶりの風景スケッチ。オタオタ描いていれば佐伯画伯の声が聞こえた。「スケッチはなぁ、気持ちを込めてパパッと描くんだよ」。瞬間芸のようにもう一枚描いたがアップは後ほど。彼のサインは「UZO SAHEKI」らしい。


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