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ピカソや熊谷翁になれなかった義松 [スケッチ・美術系]

moriiti1_1.jpg 五姓田義松展の図録には風景画〝習作〟とされたラフが幾作もあった。それらを見ていてふと閃いた。「彼はここから細部描写に入って行くが〝ものぐさ=熊谷翁〟は、ここから細部無視。幾つかのブロックにまとめた平面塗り構成で仕上げた」と。

 義松には細部を描き込む自信があって、熊谷翁は細部描写が面倒くさいか、書き込むことで曝け出される己が恥ずかしくて〝逃げた〟と思った。この推測が正しいかを検証するために、義松の習作(ラフ)から熊谷守一だったらこう仕上げると模写図を描いてみた。

 これをかかぁに見せると「あらっ、この単純な絵の方がいいわ」と言った。風景画の描き方がこれで良いのなら〝楽〟である。だが、実際はそう単純ではないだろう。ここで若くして写実を極めたピカソの場合も考えてみた。「ピカソ石版展」図版に「二人の裸婦」や「闘牛」が写実から次第に〝飛んでいるピカソ〟になる過程がリトグラフに収められていた。「闘牛」全10点のなか3点を模写。

picasso1_1_1.jpg 最初の写実風の牛から、各支点を結ぶ線が生まれて抽象化され、最後の10作目では一筆書きのような線画になった。同図録解説によると「ピカソはこうして作品を仕上げるのではなく、これら過程は想像力の展開ゆえ〝完成作〟はない。最後の線画は滋養を吸い取られた形骸」だろうと記されていた。これがピカソの〝描くことが生きること〟の意なり。

 これまたよく言われることだが「ピカソは写実的に描くことを十代で征服し(義松と同じ)、後は出来上がったものを次々に破壊する宿命になった」。義松は写実力を得た後の進化・破壊・創造を放棄したために自らの才を朽ちらせてしまったのだろうと考えられる。

 義松が写実からの進化に挑戦していれば、ひょっとして日本の明治にピカソが出現したかもしれない。以上、隠居のてなぐさみ美術のたわごとでした。これにて五姓田義松を終え、次に熊谷守一翁へ移る。


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