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師と妻子捨てて行かねば革新へ [スケッチ・美術系]

matissehatue1_1.jpg<マティス・メモ1> ●マティスは1869年大晦日、祖母の住む北フランスは織物の町カトーで生まれた。父はパリの百貨店勤めで、帽子屋で働く母と結婚。故郷近くのボアンで雑貨店経営。●1歳、ボアンにドイツ侵攻。●1880年、25歳の五姓田義松は渡仏し、翌年からルーブル美術館で模写開始。この時、マティスはまだ10歳。

●マティス17歳、パリの法律学校で学び、故郷で法律事務所で働くも満足せず。●1889年、徴兵検査不合格。本人は後に腸の病気と言っているが実際はヘルニアだったそうな。●1890年、20歳。1年間の療養中に母から油彩道具を貰う。油彩入門書と多色石版画を参考に最初の絵、題して「本のある静物」を描く。これを機に法律から画家志望。

●21歳、父の反対を説得してパリへ。最初の画塾に失望し、ギュスターヴ・モロー(幻想的作品が多い象徴主義の画家、60歳)の教室へ通う。●モンパルナスで友人と共同生活。帽子屋で働く19歳のモデル・カミーユ(カトリーヌ・ジョブロー)と所帯を持つ。師の勧めでルーブル美術館の古典作品を模写。●24歳、娘マルグリット誕生。翌年、5度目の挑戦で「エコール・デ・ボザール」(国立美術学校)入学。●1896年、国民美術家協会のサロンに5作品出品。「読書する女」が政府買上げ。画家として生きるメドを得る。

●だが、夏滞在のブルターニャ(フランス北西部の半島)の別荘主、ピーター・ラッセルから印象派の「色彩を最優先にし、感情に従って描く」を教えられる。ラッセルはパリの画塾でゴッホ、ロートレック、エミール・ベルナールらと同塾。ロダンのモデルをしていたマリアンヌと結婚していた。時流はすでにポスト印象派の時代。

 これで画風一変。象徴主義モローが怒り、妻も「やっと掴んだ実績(写実の)を捨てるのか」と呆れる。絵画の新たな流れを知ったら、もう元へは戻れない。師と妻子と別れ(捨て)、新たな絵画を模索し始めた。この時、27歳。

 カット絵は、マティス最初の絵「本のある静物」簡易模写。模写しつつ、私事だが小学生の頃に描いた「達磨ストーブ」の絵が、何かのコンクールに入賞し、本人知らぬ間に額装されて上野?かどこかに展示された事を思い出した。それで図に乗って〝画家になりたい〟などと思わずに、本当に良かったと振り返った。朧げながら多色のストーブ絵で、ちょっと印象派風だったような。あの絵は手許に戻らず、どこへ消えたのだろうか。


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