SSブログ

襲ひ来る事件や誹謗耐へに耐へ [スケッチ・美術系]

otoko1_1.jpg<マティス・メモ3> ●1902年、パリで10年を経ても画家として独立出来ぬ彼に、実家から月100フランの仕送りが絶えた。そして妻の実家パレイル家に大トラブル発生。妻の両親が仕えるアルベール(元司法大臣)が終身年金基金を持ち逃げ(当時のフランスを賑わせた「アルベール事件」)に巻き込まれ、マティスも両親擁護に奔走。

●披露困憊して実家のボアンで静養すれば、地元民は「父の商売を継がない。法律家の勉強を途中放棄。画家としても無能」とバカ扱い。マティスの頑なさ、プライベート侵害へ過剰反応、内省的など人から敬遠気味の印象は、これら辛い体験もあってのこと推測した。

●1903年、息子二人を故郷に残してパリへ。「セザンヌが正しければ、私も正しい」呪文を唱えるように呟きつつ渾身の絵画修行。●「アカデミー・カミロ」入学後、ややして理想教師に出会った。ロダンの助士を務めたブルーデン(代表作「弓をひくヘラクレス」)。彼の彫刻教室で「外見のリアリティではなく内面の感情の表現」の大切さ。「視覚的な単純化」を教えられた。彼の盟友で美術評論家ゴルベール(代表著作「線の倫理」)を裸体モデルに彫刻「奴隷」制作。ゴルベールは末期結核。マティスは死にゆく彼(1907年没)をモデルに3年間で油彩、素描100回余。モデルと画家の真剣勝負。

●1904年、アンデパンダン展に油彩画6点を出品。「卵の静物」が400フランで売れた。次第に画商が注目。同展主催の独立美術協会副会長にしてスーラと共に点描の新印象派画家ポール・シニャックと南仏サントロペで交流。彼の説く点描と、セザンヌの「思いのままの色彩で描く」の両路線に葛藤。だが同時期に携わったゴッホ展準備を通じて「点描」から解放される。独自の道を歩み出し、次第に前衛画家として注目を浴び出したのが35歳。

 カット絵は、死にゆく男をモデルにした「裸体の男―奴隷」の一部模写。マティスはすでに細部単純化を身に付けている。「マティス=女体」イメージだが、最初に取り組んだのが男性裸体だったとは。(続く)


コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。