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ホイットニー家と勝海舟 [青山・外人墓地]

kathu&whi5_1.jpg アンナ・ホイットニーのお墓には勝海舟の墓碑銘が刻まれていた。「明治十六年四月十七日 骸化土霊帰天 ホイットニー親友 勝安芳誌」。安芳(やすとし)は勝安房守の維新後の名で〝あほう〟のシャレ。漢文は「体は土になるが、霊は天に帰る」の意らしい。裏には「義人必由信而得生」。漢文聖書で「義人は信仰によって生きる」の意とか。

 フルベッキ紹介の大橋昭夫/平野日出雄著『明治維新とあるお雇い外国人』にも、フルベッキと勝海舟の交流が記されていた。勝は長崎で知り合ったフルベッキの世話で16歳の長男・小鹿をアメリカ留学させた。(アナポリス海軍兵学校卒業後、明治10年帰国。海軍大尉に任官後、明治25歳で病没。青山墓地に埋葬されている)

 さて、ウイリアム・コグスウェル・ホイットニー家(妻アンナ、長男ウィリス、長女クララ、次女アデレイド)は、駐米公使・森有礼の勧めで明治8年(1875)に来日し、勝邸敷地内に家を建て、「商法講習所」(一橋大の前身)で教え始めた。何があったか契約途中に解雇で、勝海舟が何かと援助。ウィリアムは津田仙が設立「銀座簿記夜学校」の先生になった。(津田仙は、街路樹ニセアカシアを日本に持ち帰った農学者で、津田塾創設の津田梅子の父。青山墓地で眠っている)

kathu&w2_1.jpg 明治12年、ウイリアムは自身の療養と息子ウィリスの勉強(当初は東大で医学を勉強。ペンシルヴェニア大医学部へ)などで帰国。(この辺はサイト「複式簿記がやってきた!」に詳しい。明治15年(1882)、一家は再来日途中でウイリアムがロンドンで没。アンナ未亡人が一家を率いて来日。彼女もまた翌明治16年、49歳で病没。外人墓地二人目の埋葬で〝親友=勝安芳〟の募誌となる。

 ホイットニー家の物語はまだ続く。明治19年に医学を学んで帰国した息子ウイリスが、母アンナに寄せられた弔慰金を元に、勝海舟の地に施療病院を開設。同年クララが勝の三男・梅太郎と結婚。(一男五女を授かる)。

 同病院は明治21年、ウイリアムの実弟G.ブレイスウェイト夫妻(アンナの隣の墓で眠る)も協力して赤坂病院へ発展。明治31年(1898)にフルベッキ最期を看病し、その1年後の勝海舟の最期も看病。

 同病院は現在「日本基督教団赤坂教会」になっている。このシリーズ最初に外人墓地から東京ミッドタウンを望むスケッチをしたが、同ビル裏側に赤坂元氷川の勝安芳邸跡、赤坂教会がある。なお勝海舟夫妻の墓は洗足池湖畔だが、父小吉をはじめ「勝家之墓」は外人墓地から中央通りを挟んだ向こう側にある。昭和28年7月改修とあるが荒れていた。脇に〝お糸さん〟の小さな墓があった。※『クララの日記』を読みたかったが、図書館、書店になかった。


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