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ジュ・ブスケの家族物語 [青山・外人墓地]

bousquat2_1.jpg 「アンナ・ホイットニー之墓」の南側に、大きな石柱墓碑。「佛人治部輔氏之墓」(フランス人ジュ・ブスケの墓)。おぉ、先日記したフルベッキの翻訳顧問時代に、共に欧州各国の憲法を翻訳したジュ・ブスケさんだ。明治9年の天皇勅令「国憲を草案せよ」に、二人は協力して自由主義を盛り込むも、明治政府はその部分を削除して「プロシャ型憲法」にした、と記したばかり。

 ジュ・ブスケ(Aibert Charies du Bousquat)を検索すると、曾孫・林邦宏氏による「歴史散歩」があった。そこからジュ・ブスケさんのプロフィールを探ってみる。彼はベルー生まれで、フランス士官学卒で少尉。慶応2年(1867)、幕府要請でフランス軍事顧問団(計19名中、士官6名のひとり)として来日。

 報告書の作成年代は不明だが、早大図書館の古典籍総合データベースで、彼が記して翻訳されただろう「西洋万国陸軍建置之原則并仏国陸軍建置及編成/ジブスケ」が公開されて、誰もが居ながらにしてネット閲覧できる。

 顧問団は横浜で軍事訓練を1年ほどしたが、戊辰戦争(慶応4年~)で幕府崩壊。顧問団は解散も、彼は慶応4年に士族・黒田平之丞の次女・花子と結婚していたこともあって、フランス公使館通訳として日本に留まった。その後、富岡製糸場建設などに尽力(機械導入やフランス人技師ブリュナを推薦など)。明治4年からは翻訳官として雇用され、フルベッキと各国憲法翻訳や、明治憲法草案の共同作業をしたのはその頃だろう。

bousquethaka1_1.jpg 彼は花子との間に6子をもうけ、政府との契約後はフランス領事として日本滞在。明治15年(1882)没。外人墓地への埋葬にアーネスト・サトウも立ち会ったとか。この墓標の隣に彼の功績が刻まれた大きな碑石もある。

 ジュ・ブスケさんの三男・林治信さんが明治40年(1907)に日本帰化。彼の孫が林邦宏さん。同じ墓地に「故・林治信之墓」「「林正治墓」があるのが頷けた。氏のサイトには横浜生まれながらフランスに旅立った子らのその後が詳しくレポートされていて日仏にわたるファミリー・ヒストリーが紹介されている。

 また同サイトにはジュ・ブスケさんが明治2年に横浜で攘夷派の残党暴漢に襲われて軽症を負ったとも記されていた。小生は目下、吉村昭著『アメリカ彦蔵』読書中。攘夷派の暴挙は生麦事件からで、当時の横浜の様子が詳細に記されていた。次回は〝アメリカ彦蔵=浜田彦蔵之へ。


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