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牧畜指導と外交官のエドウィン・ダン [青山・外人墓地]

dun1_1.jpg 鹿島出版会『お雇い外国人~開拓』(原田一典著)を参考にする。エドウィン・ダン(Edwin Dun)は米国オハイオ州で1848年生れ。父が農業・牧畜の大農場を経営。18歳で父の事業に参加。牧畜業全般を習得し、競走馬育成もしたが南北戦争で頓挫。日本の開拓使赴任を承諾。100頭の牛、100頭の綿羊を引き連れて明治6年(1873)に来日。

 まずは東京の大名大屋敷跡に設置の官園(北海道開拓に持ち込む種苗・種畜を馴化させる試験場。第1は青山南町、第2は青山北町、第3は麻布新笄町)。彼は第3官園で70名の学生を指導。明治8年、家畜と共に北海道七重官園へ。「つる」と結婚。翌年、牧牛場を真駒内、牧羊場を札幌西部に設けて指導監督。真駒内では牛・豚飼育とバター、チーズ、ハム、ソーセージ加工製造も指導。新冠牧場で馬の改良。馬場も作って競馬振興も図る。

 開拓使廃止後に帰国したが、明治17年(1884)に公使館の第二書記として再来日。(米国公使館は明治23年に赤坂に移るまでは築地居留地にあった)。明治21年(1888)に「つる」夫人死去。明治26年(1893)公使に昇進。日清戦争の早期解決に奔走。公使罷免後も日本に留まって事業展開。直江津の製油所の取締支配人。明治40年(1907)諸施設を日本石油に譲渡。

EdowinDun1_1.jpgJamesDun_1.jpg その後は長崎の三菱造船所で従事したが、東京代々木で隠棲。旧旗本の娘「ヤマ」と再婚。彼女にも先立たれたが、二人の間に生まれた次男で音楽家ジェームス・ダンと彼の妻「道子」に見守られつつの余生。昭和6年(1931)に84歳で逝去。

 真駒内にはエドウィン・ダン記念公園に彼の記念館があり、青年ダンが子羊を肩にした銅像もある。青山・外人墓地には彼の墓の横にジェームス・ダンと妻・道子の墓がある。ジェームスは日本の音楽学校で学び、日本帰化後にドイツ留学。帰国後は声楽家・村山道子と結婚。東洋音楽学校、成城学園、日大芸術学部などで講師・教授を務めた。

 ダン関連書には赤木駿介著『日本競馬を創った男』、阿部三恵著『エドウィン・ダンの妻ツルとその時代』、田辺安一著『お雇い外国人エドウィン・ダン~北海道農業と畜産の夜明け』などがある。


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