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築地居留地を自転車散歩 [青山・外人墓地]

 青山・外人墓地調べをしていると「築地居留地」(跡)へ行ってみたくなる。同墓地のそもそもが、明治10年(1877)に築地居留地の在住者が亡くなったのを機に、青山霊園に外人墓地専用埋葬地を設けることが決まってのこと。その最初が「御真影を描いたキョソーネ」で紹介済。キョソーネと共に招聘されたドイツの銅板摺師カール・アントン・ブリュック(明治13年に41歳で病没)の埋葬だった。

beikokuato1_1.jpg かくして自転車で築地居留地・史蹟巡り。新宿から半蔵門を皇居・桜田濠沿いに下って晴海通りへ。銀座4丁目から歌舞伎座前を走って勝鬨橋手前を左折。築地7丁目の先が明石町。その取っ付きに老舗料亭「つきじ治作」。勝手口壁前に「運上所跡」の碑。運上=居留地の商工取引の税関。つまり「東京税関発祥の地」。

 ここから「佃の渡し」石碑辺りまでが明石町。居留地には競貸(せりがし)地区・相対借地(あいたいかりち・雑居地)の区別があったりするが、この全域が明治32年の居留地廃止で明石町になった。

 「運上所跡」から隅田川沿いに遡れば、ツインタワーの「聖路加ガーデン」。そのビル下に「アメリカ公使館跡」(赤坂に移る明治23年まで)の看板。明治17年に公使館第二書記として再来日したエドウィン・ダンもここで仕事をしていたのだろう。

tukijikyokai5_1.jpg アメリカ公使館の石標一部が、現・聖路加国際病院の庭にあった。同病院は居留地廃止の2年後、明治35年にアメリカ聖公会の宣教医師ハドルフ・トイスラーが設立。

 当時の面影を残すのは他に「カトリック築地教会」。明治11年にゴシック様式の聖堂が建立されたが関東大震災で焼失。現存する教会は昭和2年再建。

 自転車で辺りを走れば、多くのミッション系学校の「発祥の地」碑に出会う。立教大学、立教女学院、暁星学園、青山学院、女子聖学院、関東学院、女子学院、慶應義塾など。それら創設時代の教師・宣教師の幾人もが青山・外人墓地で眠っている。

 以下は私事。若い時分に「日刊スポーツ」に出向いた時期あり。中年で演歌仕事に関われば築地本願寺の第一伝道会館・百畳広間が公演芝居の稽古場で幾度も取材に通った。その両方を線で結んだ隅田川側がほぼ「築地居留地」。当時は興味関心なく、今は隠居の自転車散歩で20代の頃、40代の頃を思い出しつつ幕末・明治探しで遊んだ。写真上は「アメリカ公使館の石標が設置された聖路加国際病院前」、写真下が「築地カトリック教会」。

 追記:元は鉄砲洲または南八丁堀といわれる新港町の六丁目八丁目。同じ南八丁掘だった入船町の七、八丁目。同じく新栄町の六丁目。これらが居留地区域となり、いずれも明治三十二年(居留地廃止)に、明石町一色の中に〝編入〟された。(木村荘八著『東京繁盛記』)


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